政治的混乱の中で「政治の本質」を問う

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政治的混乱の中で「政治の本質」を問う

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/09/10/ 00:00]

この9月は、二大政党の党首選びがあり、政治の季節ともいえるが、今年は小沢一郎元民主党代表の離党・新党結成騒ぎなど、政治的な混乱が続いた。評論家たちはこぞって「政治の劣化」を指摘するが、真相はどうなのか。

天上の国ないし霊的秩序に属する教会が地上の国ないし物質的秩序に属する政治について語るについては、これまでもしばしば指摘した通り、政教分離の原則によって互いの秩序を尊重してこれに介入することはしないが、しかし、両者は相互補完関係にあることに鑑み、政治的秩序の目的や倫理について語るのは教会の使命に属することをまず明らかにしておく。

このところ、政治の劣化について新聞やテレビ、さらに各総合雑誌においても様々な議論が飛び交っている。わたしが毎月購読している『文芸春秋』、『中央公論』、『世界』各誌も9月号で特集を組んだりして現行の政治を批判し、そのあり方をさまざまに論じているが、もう一つその深まりが足りないような気がする。そのあたりの事情についてある対談における片山善博氏の言葉がわたしの目を引いた。彼は言う。

「ジャーナリズムは単なる先行きの見通しを語るのではなく、政治の本質を追求しなくてはなりません。そうなれば有権者も政治の本質をとらえ、問題を真摯に考えるようになる可能性がある」(中央公論9月号・対談・「“まともな人”が政治家になれない理由」)。つまり、政治の本質をとらえない議論は無意味であり、政治の本質をとらえた言論だけが原罪のわが国の政治的混乱を救うとの指摘である。もっともな指摘である。

周知の通り、民主主義政治は時として「衆愚政治」と揶揄されるように、ややもすればポピュリズムに陥り、気まぐれな世論に振り回されることになる。最近のわが国の政治的混乱はまさにそれではないか。だから、国民主権を大事にする民主政治を行うには、世論の動向を見極めながら、その中から何が真実であり必要であるかを識別することのできる高邁な政治的見識が無ければならない。この高邁な政治的見識こそ、片山氏の言う、語らなければならない「政治の本質」である。しかし、片山氏も他の論者たちも「政治の本質」が何であるかを語らない。そこで、教会が語る政治の本質と目的について紹介することにしよう。

「市民共同体を形成する各個人、家庭、諸団体は自分たちだけでは完全な人間生活を営むためには不十分であることを自覚し、絶えず共通善をよりよく実現するために、すべての人が毎日力を合わせるようなさらに大きな共同体の必要を感じる。そこで、種々の形態の政治共同体を形成するのである。したがって、政治共同体(国家)は共通善のために存在するのであって、政治共同体はその意味とその完全な正当化を共通善の中に見出し、またそこから最初の、そして本来の権利を得る。共通善は個人・家庭・団体がそれぞれの完成により完全に、より容易に到達することができるような社会生活の諸条件の総体である」(現代世界憲章74)。

要するに。国民が国家という政治共同体を必要とするのは、自分たちが「完全な人間生活」を営むために足りない部分を国家に補完してもらうためである。したがって、国家権力の存在理由はひとえに国民の不足を補完するため、「国民の共通善」に奉仕することであって、これが政治の本質であり、目的であるということである。

その意味からすれば、3年前、「国民の生活が第一」という、民主党が掲げたマニフェストの理想は政治の基本でなければならないことになる。多くの有権者がそのことに気付いて民主党を政権党として選んだのではなかったか。しかし、その後の経過をみると、必ずしもその意味が本当に理解されてはいなかったのではないかと疑わざるを得ない。政官業癒着の利権政治への逆戻り現象が見えるからである。

わが国は高度経済成長その他において峠を越えている。世界もまた、新自由主義がもたらした金融・経済危機に見舞われて、政治・経済・社会体制の根源的なリセットを求めていることは、多くの識者が指摘する通りである。したがって、内政・外交ともに、政治の基本に立ち返り、世界の富の奪い合いから公平な分かち合いへと舵を切りかえて、人類全体の共通善を追求する新しい世界秩序の構築を急がなければならない。そうした理解が深まり、世論が盛り上がることが必要である。そのためにも、教会の政治理論に共鳴する信徒たちや善意の人々がオピニオンリーダーとなり、正しい世論を盛り上げることを期待してやまない。