いじめに負けない子を育てる

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > いじめに負けない子を育てる

いじめに負けない子を育てる

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/09/25/ 00:00]

さきに(8月25日付)、「いじめない子を育てるために」、隣人を尊重する良心の形成について論じたが、今回はもう一つの観点、すなわち「いじめに負けない子を育てる」にはどうしたらよいかについて論じたい。

「人生は戦いである」と言われる。その意味はいろいろであろうが、ここでは、人生を邪魔するあらゆる障害との戦いと解したいが、いじめもその中に数えてよいのではないか。いずれにせよ、子供たちはこの人生の戦いを前にしてその備えをしなければならない。

そのためには、第一に、人生は戦いであることを教え、苦難に耐え、試練に打ち勝つ強い人格を育てなければならない。われわれが育った戦前の生活は、生活そのものが肉体的にも精神的にも大きな苦労があり、おのずと忍耐強い精神力が鍛えられたが、生活が豊かになり便利になった現在においては、ことさら努力をし、工夫をして忍耐力を養う必要があるのではないか。

第二は、悪と戦う意思と力を養わなければならないこと。人間には内には無軌道な本能や欲望があり、また外からの誘惑にさらされているから、良心を磨き、常に悪を識別してこれに対抗する徳を磨かなければならない。いじめにおいて、家の金を盗むよう仕向けたり、万引きを強要するなど、悪を迫るものがあると聞くから、毅然としてこれを拒絶する心構えが必要である。

そして第三は、いじめる友人に対して、仕返しではなく、愛と友情をもってこれをたしなめ、忠告するなど、逆に働きかける勇気を養わなければならない。このような勇気と気迫以上のいじめ対策はないであろう。東洋の賢人は「罪を憎んで人を憎まず」と教えたそうだが、キリストは「敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5,44)と言われ、パウロも「善をもって悪に勝て」(ローマ2,21)と教えている。

このようにして、いじめに負けない子を育てる場は、言うまでもなく優先的に家庭と学校である。家庭は本来、人間が生まれて育ついのちの聖域であり、両親の愛と模範と折々のしつけや指導によって人生を学び、そのための基本的な特性を養う場である。学校もまた、今日の体制においては、子供の人間的かつ社会人としての知識や技能ばかりでなく、その人格の形成と社会徳の育成に協力すべき使命がある。

とは言え、人間は弱い。「いじめに負けない子を育てる」ために、もう一つの面を考えなければならない。すなわち、人間は弱いという事実に立って、共同で悪に対することを学ばなければならない。子供たちは幼稚園から学校へと進むに従い、さまざまなストレスを経験し、ざまざまな不条理に傷つくことも一再ではない。したがって、そんな子どもたちの弱さをともに分かち合い、慰め励ますことが大事になる。ところが、現代は「甘え」を悪と考え、一人で逆境に立ち向かうよう、「自己責任」を強いる傾向がある。その結果、人々は孤立し、人に助けてと言えない無縁社会が現出した。いじめ被害者はその被害者であると言ってよい。だから、子供と孤立させてはならない。かの「甘えの構造」で有名な土井健郎は、甘えは赤ん坊にとって重要であり、成人するに従い、愛の連帯の中で互いに支え合い補い合う関係へと成長することが必要であると説く。まさにその通りで、人間の社会性は、子供も大人も、相補的な関係の中で生きていかなければならないことを示している。

そういう意味で、家庭は子供にとっては最良の避難所でなければならない。共働きの家庭が増え、離婚や未婚が増えて家庭崩壊が進む世の中で、健全な結婚と家庭を守ることがひいてはいじめ対策としても重要になってくる。一方、学校における教師の役割も、上記の意味で重要である。子供は年齢が上がるに従い、親以外の指導者を必要とすると、心理学者はつとに指摘しているところである。したがって、子供が中学ともなれば親代わりとしての教師の役割は重要になると考えなければならない。その意味で、いじめ対策としての教師の役割についても、もっと語られてよいのではないか。

またその意味でも、子供の教育における両親と教師の緊密な連携が必要である。戦後、PTA

が創設されたのもその意味からであろうが、いじめ対策の中でPTAについての指摘が無いのはなぜだろう。昨今、PTA無用論なども聞かれたが、その使命についての理解が失われたからではないかと思う。