増え続ける“児童虐待”事件
カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/10/10/ 00:00]
さる9月6日に警察庁が発表したところによれば、今年上半期(1~6月)に事件として対応した児童虐待は昨年同期比62%増の248件で、統計がある2000年以降では最多であるという。
このショッキングな発表に関連してまず驚いたのは、新聞各紙のこのニュースの取り扱い方である。わたしが購読している3紙の中で、朝日、毎日は社会面の中段、南日本でも社会面のトップ扱いで、事の重大さの認識の低さを物語っているようだ。わたしの考えでは、このニュースは1面トップの扱いでもよいのではないか。
生みの親にとって子どもは天与の宝であり恵みであって、この世の何よりも大事にして育てるべき存在であるはずである。その子どもを自分の感情の赴くままに虐待して、言うことを聞かないとか、しつけのためだったとかうそぶいているという。人権軽視の風潮は児童虐待ばかりではない。今朝のテレビによれば、児童ポルノ事件も過去最高になったという。少女誘拐事件も多発しており、子どものいじめ問題も後を絶たない。その後のニュースでは高齢者の虐待も増加しているという。
そこで思い出したのであるが、数年前、すなわち2006年にテレーズ・デルペシュ(Therese Delpech)著の『野蛮の世紀』という本が出版された。原書名は
“L’ENSAUVAGEMENT-―Le retour de la barbarie au XXI siecle”で、直訳すれば、『野蛮化――21世紀における野生の再来』である。帯封につぎのようにしるされている。
テロリズム拡大、核兵器拡散、軍事大国化する中国、ロシアの保守化――。世界を二度の炎に包んだ、あの悲惨な歴史が繰り返されるのか。人類運命の年「1905」から現在までの歴史を眺望・分析し、近未来の世界が瀕する危機をあぶりだす。誇り高き国家フランスの最高峰フェミナ賞受賞作品、各誌に絶賛されたベストセラーが、遂に翻訳化!
二度にわたる世界大戦やナチスのホロコースト、それに共産主義国における大量の“粛清”など、大量殺戮の20世紀を野蛮の世紀と呼び、その野生が21世紀にも引き継がれているとする警世の書である。フランスではずいぶん騒がれた本のようだが、わが国における反応はそれほどでもなかった。しかし、考えてみれば、野生再来の警告はわが国にも絶対に必要であると言わなければならない。なぜなら、初めに記したように、わが国においても、人間の尊厳とその基本的権利が侵害され、人命が単なる物であるかのように扱われ、抹殺される事態は決して少なくないからである。生みの親が自分の子供を虐待し、死に至らしめる現実はその象徴である。
ところで、「野蛮」とか「野生」という語は「文化」ないし「文明」が発達する以前の人間の野性的かつ動物的な、未開発の状態であり、さまざまな無軌道な本能や欲望を規制して人間らしく生きるにはその理性は暗く不明であり、意思もまた欲望や誘惑に打ち勝つにはあまりに弱い。そうした中で、次第に知恵を磨き意思を鍛えて、本来の尊厳、すなわち精神的かつ社会的存在としての尊厳にふさわしい人間に成長することを文化と言い文明というのである。
しかし、文化や文明が進んでも、野蛮な野生は人間本性の中に生き残る。一人ひとりの人間はだれでも野生から文明へと教育され、あるいは自ら修行して成長しなければならない。そういう意味で、子どもを産み育てるべき両親の教養(文化)が問われるのである。今われわれが取り上げている児童虐待問題は、親たちの教養のなさとむき出しの野性を示すものであって、子どもの第一の教育者としての親の失格を示している。
先に述べたとおり、文明開化の現代日本において、児童虐待ばかりでなく、実に様々な形で野蛮や野生現象が噴出している。そればかりか、自由の名のもとに野性が礼賛される傾向すらあるのではないか。これは、物質文明を誇るわが国にとって由々しい問題であり、精神文明の遅れを示す危機的現象であると言わなければならない。その意味で、この危機感をメディアはもちろん、われわれ民間も積極的に取り上げて世論を盛り上げ、野蛮化の危機と闘わなければならないのではないだろうか。