“目的は手段を正当化しない”
カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/11/10/ 11:00]
人間的行為の倫理性に関連して、表記の言葉が教会で古くから教えられてきたが、これは、第2バチカン公会議に従って20年前に改訂された新しいカトリック要理書『カトリック教会のカテキズム』にも明記された。その条項は次のとおりである。
「よい意向(たとえば隣人を助けるという意向)を持っているというだけでは、それ自体として正しくない行為(うそや悪口など)をよいものにも正しいものにもすることはありません。目的は手段を正当化しないのです。ですから、国民を救うための手段として、無実の者に有罪の判決を下すことを正当化することはできません。逆に、悪い意向(たとえば見栄)で行われるならば、本来はよい行為でありうるもの(たとえば施し)を悪い行為にしてしまいます」(『カトリック教会のカテキズム』1753)。
この文章の中では、意向と目的、行為と手段は、同じ意味で使用されている。よい意向、すなわちよい目的であっても、そのための行為、すなわち手段が悪ければ倫理的に悪行となり、行為、すなわち手段はよいものであっても、意向、すなわち目的が悪ければ倫理的に悪行となるというわけである。
ところが、最近ニュースになった事件や出来事を観察すると、目的のために手段を正当化しようとする事例が多すぎるような気がしてならない。
たとえば、先般来、尖閣諸島の領有をめぐる日中両国の軋轢の中で、中国では日本への抗議デモにおいて日本人が経営しているスーパーやレストランに暴徒が押し入って店内を荒らしても、「愛国無罪」として見逃されていると報じられた。「愛国」のためなら「暴力」も許されるというわけである。もっとも、その「愛国」すら、反日という「排外主義的愛国心」であって、正しい目的とは言い難い。
これに対し、日本の国内事情はどうかと言えば、理性的に冷静に対応しているという評価がある反面、昭和の15年戦争を正当化しようとする勢力も決してなくはない。あのアジア侵略はやむを得なかったとする人たちだ。だから、正しい歴史認識に立たなければ手段を誤ることになろう。
たとえばまた、しつけのためとの口実でわが子に暴力を振るい、しばしば死に至らしめる親たちのことが繰り返し報じられた。「しつけ」と言えば、感情に任せた虐待行為も許されると思っているらしい。個人主義を助長し、いたずらに自己責任を強要する戦後教育のつけがここにきて現れているのではないか。
さらにまた、最近の野党のやり口にも目的のために手段を選ばない行動がみられる。国会を通過して成立した国家予算を人質にとって、党利党略のために予算執行を妨害しているからである。この場合、手段も悪いけれど目的もまた悪いのではないか。政治というものは100パーセント国民のためであって、政党のためではないのではないか。
iPS細胞に関連する最近の事情も気にかかる。テレビニュースの字幕でちらっと見たのだが、ノーベル医学生理学賞を贈られた山中伸弥教授は、「倫理問題を避けるために、受精卵を使用しないで万能細胞を造り出すために努力してきたが、それが成功するや否や、iPS細胞から精子や卵子などの生殖細胞を作ろうとする倫理問題が起こり、慎重に対処せざるを得ない」という趣旨の発言をされていた。神を恐れず、生命科学の発展や不妊治療の促進などの美名のもとに、科学が入ってはならない神の領域に踏み込もうとする科学者の態度もまた、目的のために手段を選ばない人間の傲慢であり、神を畏れぬ不敬行為である。
物質文明の長足の発達に追いつかない精神文明の遅れを嘆きながらも、わたしたちは正しい目的のために正しい手段を選ぶ人間として、懸命に闘っていかなければならない。ここに言う「正しい目的」とは、究極的には「神の愛にあずかること」(至福)であり、「正しい手段」とは「すべてに越えて神を愛し、すべてにおいて隣人を愛すること」に他ならない。聖書は物語る。「ファリザイ派の一人が、『先生、どの掟が律法のうちで一番重要ですか』と尋ねた。イエズスは答えて、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが一番重要な第一の掟である。第二もこれに似ている。隣人をあなた自身のように愛せよ』と仰せになった)(マタイ22,35-39)。
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