“働きたくない者は、食べてはならない”
カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/11/25/ 00:00]
「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝し合う」国民の祝日・勤労感謝の日に思いを致し、また、最近の労働事情、たとえば生活保護不正受給問題などを考えているうちに、「働きたくない者は、食べてはならない」という聖パウロの言葉を思い出した。
自分では働かないで他人の情けにすがって生きる人びとが当時もいたのだろうか、聖パウロはテサロニケの教会に次のように書き送っている。「あなたがたのもとにいた時、わたしたちは『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。黙々と働いて、自分でかせいだパンを食べなさい、」(2テサロニケ3,10-12)。
カトリック教会では、聖書の教えに従い、主キリストの模範に倣って、人間の働く使命について絶えず教えてきた。最近では、第2バチカン公会議(1962-65)が「人間活動の価値」について次のように教えている。
「人間は神の似姿として造られたのであって、大地とそこに含まれる万物を支配して世界を正義と聖性のうちに統治し、また万物の創造主である神を認めて、人間自身とあらゆる物を神に関連させるようにとの命令を受けた。…この命令は日常の仕事にも適用される。自分の家族のために生活費をかせぎながら、自分の仕事が社会に適切に役立つよう働く男女は、当然、自分たちの労働が創造主の働きの延長、兄弟たちへの奉仕、歴史の中に実現されてゆく神の計画への寄与であると考えることができる」(現代世界憲章34)。
第2バチカン公会議に基づいて編まれた新しい『カトリック教会のカテキズム』は、もっと簡潔に人間の労働を定義して言う。
「人間の労働というものは、神にかたどって造られ、地を支配しながら、人々とともにまた人々のために創造の業を継続するようにと召されている各々の人格から直接出てくるものです。したがって、労働は義務なのです。聖パウロも『働きたくない者は、食べてはならない』と言っています」(2427)。
「人間は労働をしながら、自分の本性に刻まれた能力の一部を働かせ、完成させます。労働の第一の価値は、労働の主体であり目的である人間そのものにあります。労働は人間のためにあるもので、人間が労働のために存在するのではありません。一人ひとりの人間は労働に携わって自分と家族の生計を立て、人間共同体に奉仕することができるようにしなければなりません」(2428)。
以上で明らかなように、神の似姿に創造された人間は、自分と家族、そして人間共同体のニーズにこたえるため、いただいた知恵と能力を駆使して被造物に働きかけ、神の創造の業に協力するという、偉大な使命を受けているということである。この尊い使命を拒み、怠惰に過ごす人は、「食べてはならない」という厳しい批判を受けても言い逃れができないというわけである。
しかし、一方、働きたくても働けない様々な事情があることも事実である。仕事や労働配分が偏り、多くの失業者や非正規雇用に甘んじなければならない現状は周知のところである。こうした偏りを正し、国民一人ひとりがその能力に応じ、何らかの仕事に就き、応分の報酬を得て人間らしい生活を保障され、こうして、弱者優先の公平な社会を築くのは、優先して政治の役割であり、政府の責任であることが強調されなければならない。カテキズムは言う。
「国の責任。『経済活動、ことに市場経済の活動は、制度的、法的、政治的空白の中で営まれることはできません。それどころか、市場経済は、個人の自由と私的所有の保障、そして安定した通貨と効果的な公共サービスを前提としています。こうして、労働と生産に携わる人々が自己の労働の成果を享受し、それによって有能かつ誠実に働こうと思えるように、このような諸条件の安定を保証することが国家の第一の任務となります』(ヨハネ・パウロ2世・新しい課題48)」(『カトリック教会のカテキズム』2431)。
こんな大役が、現在の政官業癒着の利権政治に勤まるだろうか、疑問なしとしない。でも、少なからぬ識者が指摘する通り、新自由主義に基づく金融資本主義が支配する今の政治・経済・社会体制は行き詰まっており、抜本的な改革が求められている以上、政治は刷新されなければならず、また、刷新しなければならないと思う。