「キリストの秘義」は「人間の秘義」

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 「キリストの秘義」は「人間の秘義」

「キリストの秘義」は「人間の秘義」

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/12/10/ 00:00]

今年もクリスマス・シーズンがめぐってきた。カトリック教会では、キリスト降誕祭前の4週間は「待降節」と呼び、幼子キリストをふさわしく迎える準備を始める。今回は、教会はなぜキリストの降誕をこれほど大事に祝うのか、考えてみたい。

第2バチカン公会議(1962-64)は、キリストの出来事について次のように述べる。「人間の秘義は、肉となられたみことばの秘義においてでなければ本当に明らかにはならない・事実、キリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(現代世界憲章22)。

まず、ここに言われる「秘義」とは、隠された真実のことであって、人間の真実もキリストの真実も隠されており、秘義なのである。「大事なものは見えないんだよ、見えなくてもあるんだよ」と金子みすずは詠んだというが、果たして人間の究極の真実のことを考えていたかどうか分からない。しかし、わたしたちにとって、人間の真実、すなわち、人間とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか、という究極の真実を知ることは、人間としての真実を生きるために、どうしても必要なことである。

では、「キリストの秘義」とは何か。それは、イエス・キリストが「人間となった神の言葉」、すなわち、「肉を取って人間となった神の独り子」であり、父なる神とその愛を啓示すると同時に、神を知り、神を愛してその命にあずかることが「人間の秘義」すなわち「人間の究極の真実」であることを、自分の身をもって明らかにした、ということである。

1-キリストは神とその愛の啓示した

キリストはその約3年にわたる公生活において、「言葉と行い」をもって父なる神とその愛を啓示し、数々のしるし(奇跡)をもってこれを証明された。その最大の、決定的なしるしは十字架上の死と栄光ある復活であると教会は信じかつ教えている。ある神学者は「キリストは人間となった神の愛」と表現したが、神の愛であるキリストは、人類の救いのためにその命をささげたのである。つまり、キリストの十字架上の死は、人類に対する神の愛が如何に大きいかを如実に示す愛のしるしであった。

そこで教会は、神は、愛によって、愛のために人類を創造し、罪を犯して堕落した人類を独り子の死のいけにえによって救ってくださった、と教えている。聖書は言う。「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,16)。

2-キリストは人間の高貴な召命を明らかにした

すなわち、人間となってこの世に来られた神の子キリストは、そのこと自体によって人類に結ばれた真の人間である。公会議は言う。「神の子は受肉することによって、ある意味でみずからをすべての人間と一致させた」(現代世界憲章22)。そしてキリストは、結ばれた人間を代表して罪を償い、神への愛を貫いて復活し、神のもとに帰ったのである。つまり、キリストを通して人類はすでに根源的に救われており、その高貴な召命を全うしたのである。残るのは、この救いが一人ひとりの人間に適用されて、一人ひとりがキリストを信じて神の愛にこたえ、命を神と人とに捧げて人生を全うすることだけである。

キリストは言われた。「わたしは道であり真理であり命である」(ヨハネ14,6)。つまり、キリストはわたしたちがたどるべき道であり、到達すべき究極の目的であるということである。換言すれば、神の子キリストは人間を神の子とするためにこの世に来られたのである。聖イレネオは言った。「人間が神の子となるために、いと高き神の子、わたしたちの主イエス・キリストは人の子となりました」(異端反駁Ⅲ・10)。

降誕祭(クリスマス)において、教会はこの「キリストの秘義」と、そこに示された「人間の秘義」を記念して盛大に祝うのである。しかし、「キリストの秘義」は「全人類の秘義」でもあるから、降誕祭はキリスト信者ばかりでなく、全人類の祝祭でもある。だから、クリスマス・ツリーを盛大に飾るのもよし、サンタクロース遊びも結構だが、静かにクリスマスの本当の意義を瞑想する時間があってもよいのではないだろうか。キリスト降誕の祝祭が、多くの人にとって人生の謎を解くよい機会になることを願ってやまない。