「貧しさ」、キリスト教のキーワード

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 「貧しさ」、キリスト教のキーワード

「貧しさ」、キリスト教のキーワード

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/12/25/ 00:00]

キリスト降誕の神秘的な夜、天使たちは羊飼いたちに告げて言った。「恐れることはない。わたしは、すべての民に及ぶ大きな喜びの訪れをあなた方に告げる。きょう、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなた方は、うぶ着にくるまれて、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見るであろう。これがしるしである」(ルカ2,10-12)。

「飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」、これが人類を救うために人間となってこの世に来られたキリストの姿であった。聖パウロは言った。「主イエス・キリストは、豊かでありながら、あなた方のために貧しくなられた」(2コリント8,9)。貧しい人々に福音を告げ、小さな人々を救うために、神の子キリストは貧しくなってこの世に来られたのである。教会は教えている。

「神の国は貧しい人々と小さい人々、すなわち、謙虚な心でこれを迎える人たちのものです。イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ4,18)遣わされました。イエスはこのような人々は幸いだと言明されます。「天の国はその人のもの」(マタイ5,3)だからです。御父は、知恵ある者や賢い者には隠されていることを、これらの「小さな人々」に示されるのです。イエスは、ベツレヘムの飼い葉桶から十字架に至るまで、貧しい人々の生活を体験されました。飢え、渇き、貧窮を経験されます。なおそのうえに、ご自分をすべての貧しい人々の立場に置き、こうした人たちへの積極的な愛を神の国に入るための条件となさいました」(『カトリック教会のカテキズム』544)。

こうして、「貧しさ」はキリスト教のキーワードとなった。教会は教えている。

「貧しい人々に対する教会の愛は、教会の不変の伝統の一部となっています(ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題』57)。これは真福八端の教え(ルカ6,20-22参照)やイエスの貧しさ(マタイ8,20参照)、そして貧しい人々へのイエスの思いやりなどに基づいた考え方です(マルコ12,41-44参照)。働く義務があるという理由の中には、貧しい人々への愛が含まれています。つまり、困っている人々に必要なものを分け与えることができるための収入を得る(エフェゾ4,28参照)ために働かなければならないということです。この貧しさというものには、単に物質的貧しさだけではなく、種々の形の文化的・宗教的貧しさも含んでいます」(『カトリック教会のカテキズム』2444)。

ここで思い出すのは、「金持の青年」と「富の危険」についてのキリストの言葉である。「永遠の命を得るために何をすればよいか」と問う金持の青年に対して、キリストは言われた。「もし完全になりたいならば、あなたの持ち物を売り、貧しい人々に施しなさい。それからわたしについて来なさい」と言われると、青年はこの言葉を聞くと、「悲しんで立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。「そこで、イエスは弟子たちに言われた。『金持が天の国に入るのは、難しいことである。金持が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい』」(マタイ19,16-24)。

それほどまでにこの世の富は永遠の救いには障害となり得るということであろう。だが、いま世界は富裕層中心の政治・経済体制から貧民層中心の公平な政治・経済体制への一大転換期にあるというのに、先の総選挙において政党も選挙民も相変わらず金持中心の経済成長を唱えていた。米の経済学者ジョセフ・スティグリッジ著『世界の99%を貧困にする経済』を読んでその感を深くした。それにつけてもカテキズムの言葉が思い出される。

「聖ヨハネ・クリゾストモは、このことを厳しい言葉で次のように述べています。『自分の財産を貧しい人々に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人々のものです』(聖ヨハネ・クリゾストモ「ラザロについて」)。第2バチカン公会議『信徒使徒職に関する教令』では、『正義の立場からなすべきことをまずなすべきであって、正義の立場から与えなければならなかったものを、愛の贈り物として与えるようなことがあってはならない』(教令8)という説明がなされています」(『カトリック教会のカテキズム』2446)。

金持の余剰所有は本来貧しい人々のもの、すなわち貧しい人々から奪い取ったものと言う主張を金持は承認するだろうか。それほどに金持は神の国から遠いのである。