教会は「救いの普遍的秘跡」
カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/01/10/ 00:00]
「キリストは、生命を与えるご自分の霊を弟子たちに遣わし、その霊によってご自分の体、すなわち教会を救いの普遍的秘跡(Universale salutis sacramentum)として建てられた」(教会憲章48)と第2バチカン公会議は言明した。
「教会は救いの普遍的秘跡」に言う「救い」とは、この世の救いではなく、人間の究極の目的であり完成である「永遠の命」のことであり、「普遍的秘跡」とは、すべての人にとって教会は救いのために必要なものと言う意味である。第2バチカン公会議は、「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるししるしであり道具である」(教会憲章1)と表現した。
つまり、教会は、全人類と神との一致、そして人類相互の交わりにおける神の国の到来に奉仕するのである。換言すれば、教会は救いのしるしであり道具(機関)である。人間が救われるためには、教会との接触に入らなければならないのである。公会議は言う。「このメシア的民(すなわち教会)は、現実にはすべての人を含まず、またしばしば小さな群れのように見えるが、それは全人類にとって、一致と希望と救いのもっとも堅実な芽生えである。この民は、生命と愛と真理の交わりのためにキリストによって設立され、すべての人の贖いの道具として採用され、世の光、地の塩として(マタイ15,13-16)全世界に派遣されている」(同上9)。
では、現実問題として、人間はどのように教会に関係づけられているのだろうか。言うまでもなく、キリストを信じて洗礼を受けた者がすでに教会に属しているのは確かであるが、非キリスト者に関しては、公会議は、かれらは別の仕方で神の民、すなわち教会に秩序づけられていると言う。すなわち、非キリスト者に対して神が抱いておられる救済意思の種々のありように従って、公会議は四つのグループに分けている。第一番目にユデア人、第二番目にイスラム教徒、第三番目に、自分の側に落ち度がなくてキリストの福音や教会を知らず、しかし、真剣な心で神を求め、良心を通して知られる神の望みを果たそうと努力している人々、そして第四番目に、自分の側に落ち度がなく、いまだ明確な神の認識に至らず、しかし、そうであるにもかかわらず、正しい道を歩こうと努力している人々である(教会憲章16)。
ところで、すべての人を救いに導くために神が彼らに提供するたまものは神の普遍的救済意思にその基礎をもっている(教会憲章2,3,16;宣教に関する教令7)。そして、すべての非キリスト者が神の民に秩序づけられているという事実は、救いへの普遍的招きが神の民(教会)の普遍的一致への招きを含むという事実に根差している。公会議の考えによれば、これら二つの招き、すなわち救いへの招きと教会への招きの緊密な関係はキリストの唯一の仲介に根差しており、そのキリストは、教会というその体において、われわれの間に現存するものとなっている(教会憲章14)。
したがって、救いにあずかる非キリスト者は教会に秩序づけられているばかりでなく、キリストの神秘、そして教会であるその体の神秘にも結ばれていると言わなければならない。なぜなら、教会は本質的に見える一致と霊的な交わりとで成り立つ複雑な現実だからである。言うまでもなく、教会に所属していないことについて自らに責任のない非キリスト者は、神と隣人に対する愛を実行することによって、神の国に召された人々の交わりに入る。この交わりは、神とキリストの国が完成する時に、普遍教会として現れるはずである。
しかし、キリストは、人々がこの世においてキリストの福音を知り、見える教会に結ばれて救われることを望んでおられ、そのために教会に聖霊を注いで、すべての人々に福音を告げるべく派遣されたのである。したがって、教会にとって、福音宣教はその本質的な使命である。その意味で、教皇パウロ6世は言われた。「非キリスト諸宗教の人々にも、キリストの神秘の宝を知る権利がある」(使徒的勧告『福音宣教』53)。つまり、教会はこれらの人々の権利にこたえて、キリストの福音を宣べ伝える義務があるということである。