「新型出生前検査」をめぐって
カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/01/25/ 00:00]
「胎児の状態を知る『新型出生前検査』の臨床研究と応用をめぐる議論が盛んだ。この検査は、妊婦の血液から胎児の特定の染色体の状態を知ることができ、これまでの検査よりも妊婦の身体的負担が少ないことと検査精度が高いことが特徴である」
これは、世界誌1月号に掲載された記事、「新型出生前検査が、可視化する日本社会の問題」の冒頭の文章である。これまでも、胎児の出生前診断についての研究は盛んであり、そこから出てくる問題点も様々に議論されてきた。そして、昨秋以来話題になった「新型出生前検査」のことが出て来て、あらためて議論が高まったのである。
わたしは医学や生命科学の専門家ではないので、その方面の技術的議論には立ち入らないが、しかし、その倫理学的側面については可能な限り発言する責任もあるので、以下、生命の始まりに関するカトリック教会の倫理的見解を中心に述べたいと思う。
まず指摘したいのは、先に引用した論文でもそうだが、新しい生命の出生に関する議論の中で倫理的な観点がしばしば欠落することである。倫理的な問題があることは指摘されても、その問題の根幹に触れることがなく、また、事の倫理性についての研究機関についても、宗教や哲学の専門家を入れない当事者だけの議論に終始することも。今回の問題についても、「厚生労働省は日本産科婦人科学会に指針の作成を要請した」(上記論文)ということで、結局は人間、特に学会と妊婦などの当事者の都合に従って、抜け道が用意されるはずであり、それが法律にでもなれば、倫理性とは関係なく、検査の結果によっては妊娠中絶という最悪の事態を生むことになるのは必定であろう。
そこで、ここには人間の都合ばかりでなく、人間の創造主であり生命の主権者である神の計画に基づいたカトリック教会の見解を『カトリック教会のカテキズム』から明らかにしたいと思う。まず、人間の生命の不可侵の尊厳についてこう述べる。
「人間の生命は神聖である。なぜなら、人間の生命はその起源において『神の創造のわざ』の結果であり、また常に、その唯一の目的である創造主との特別な関係の中にあるからである。神のみが、その初めから終わりまで、人間の生命の主であり、したがって、だれも、いかなる場合にも、無辜の生命を故意に絶つ権利が人間にあると主張することはできない」(2258番)。
胎児の不可侵の人権と妊娠中絶についてはこう述べる。
「人間の生命は受胎の瞬間から絶対的な仕方で尊重され、保護されなければならない。人間は存在の最初の瞬間から人格の諸権利が認められなければならない。それらの権利の中に、無実の人間の生命に対する不可侵権がある」(2270番)。
「1世紀以来、教会はあらゆる人工妊娠中絶は倫理的に悪であると宣言してきた。この教えは変わっていない。それは不変のままである。直接の妊娠中絶、すなわち目的または手段として意図された妊娠中絶は、道徳律への重大な違反である」(2271番)。
「胎児は、受胎の時から一個の人格として取り扱われなければならない。それゆえ、可能な限り、一人の人間としての誠実な保護と世話、ならびに治療を受ける必要がある」(2274番)。
この項で出生前診断について次のように述べられる。
「出生前診断は、受精卵や胎児を傷つけることなくその生命が尊重され、個人の保護や治療のために行われるのであれば、倫理的に許される。治療の結果として中絶を引き起こすことが予想される場合、出生前診断は道徳律への重大な違反となる。出生前診断は、死刑宣告となってはならないのである」(同上)
「人間の胎児を傷つけることなくその生命を尊重し、必要以上の危険を冒さず、直接に胎児の治療と結びつき、その健康状態を改善し、または個人としての生存を助けるようなものであれば、胎児に対して行われる治療行為は認められる。
「染色体や遺伝子に影響を与えようとする試みは治療行為ではなく、性の区別や、前もって決められるその他の特性に基づいて人間を選別して出産することを目指すものである。このような操作は、人格としての人間の存在と十全性、固有の同一性と一回性に反するものである」(2275番)。
出生前検査に関しては、胎児の生命の一切の尊厳違反は絶対に許されないのである。