交響曲第9を合唱する日本人

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 交響曲第9を合唱する日本人

交響曲第9を合唱する日本人

カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/02/10/ 00:00]

やや時期外れだが、年末のテレビ放送と言えば紅白の歌合戦とベートーベンの交響曲第9番であろう。紅白歌合戦の方は全く興味ないが、第9の方は何となく心惹かれ、今回は三つも聞いてしまった。

最初に視聴したのは読売管弦楽団だったが、1000人とか10000人とかの大合唱団には驚いた。二番目に視聴したのは地元・鹿児島管弦楽団のそれで、白髪交じりの合唱団が歴史を物語っていた。最後に聞いたのは大みそかのNHK交響楽団の演奏で、国立音楽大学の若々しい学生合唱団が力強かった。ただ、いずれも独唱者の声が弱く、楽団の響きにかき消されるようで、物足りなかった。

心惹かれたのは歓喜の歌の歌詞だった。ドイツ語はもちろん分からないのだが、時々字幕に出てくる日本語の歌詞、「星のかなたには、愛する父が必ず住み給う」とか「星々のかなたには必ず主は住み給う」など、まさにキリスト教そのものである。神話の神々や蕃神である仏たちの文化に育まれたはずの日本人たちが、神仏を無限に超えた「超越的人格神」を「愛する父」とたたえて「歓喜の歌」を歌いあげる姿は異様にも思えるけれど、よくよく考えてみると、彼らとて日本人である前に人間であり、その意味では創造主にして全能の父である神を知り、神をたたえることは至極当然のことのようにも思える。

そもそも人間は「無から創造されて生かされている存在である。かつて聖パウロは、「あなたが持っているもので、一体何をいただかなかったというのでしょうか」(1コリント4,7)と書いたが、人間が持っているものは、体も精神も、能力や文化も、すべていただいたものであり、すべてを与えたのは、究極のところ、全能の神なる父以外にはないのである。人間は昔からそのことを知っていた。

「真理と美に向かって開かれた心、倫理的感覚、自由、良心の声、限りないものと幸福への憧れをもっている人間、この人間は神の存在について自問する。これらすべてを通して、人間はその霊的魂のしるしを認識する。『人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元することはできない』(現代世界憲章18)から、その魂の起源は神以外にあり得ない」(『カトリック教会のカテキズム』33)と言われる通りである。

こうして、人間は昔から何らかの形で神を求めてきた。諸宗教や哲学がそれである。それら諸宗教や哲学は究極の実在である神に向かい、神を求める限りにおいてはよいものであり正当なものであって、その中に実に称賛すべき業績や実績も多々あるが、しかし、いずれも神に到達した形跡がないばかりか、多くの誤謬もまれではなかった。所詮は「単に神を求める人間の出来事」(ヨハネ・パウロ2世)にすぎなかったと言える。

しかし、諸宗教や哲学のこの欠陥は、キリスト教によって埋められた。人間創造の神は、その独り子を人間としてこの世に遣わし、その御子を通して父であるご自分を啓示すると同時に、御子を通して人間を養子として迎えられたからである。教父たちは口をそろえて、「神の子が人となったのは、人間を神の子とするためであった」(たとえば聖アウグスチノ)というのである。

聖書は言う。「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,16)。この世とは人間のことであり、永遠の命とは人間が神の養子となって神の命にあずかることを意味する。このようにして、人間の創造者である神は「人間の愛する父」として自らを表されたのである。ヨハネ・パウロ2世は言う。「キリスト教の出発点はみ言葉(神の子)の受肉です、それは、単に神を求めている人間の出来事ではなく、自らを人間に明し、神に到達できる道を人間に示すための、人となった神の出来事です」(『紀元2000年の到来』6)。

交響曲第9で「歓喜を歌」を合唱し、星のかなた、すなわち超越した世界に住む「愛する父」や「主」を称える合唱者たちは、まさに「キリスト者」になり切っていると言ってよいのかもしれない。

キリスト者であるとはまだ自称していない日本人が、大挙して「初詣」に押し寄せる様は、神から離れて世俗化したとはいえ、内心では神を求め、神に向かって生きていると信じてよいのではないか。後は、いかに人となった神の子キリストに信仰と愛をもって出会えるかにかかっている。