体罰問題と教師のモラル

体罰問題と教師のモラル

カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/02/25/ 00:00]

大阪市立桜宮高校でバスケットボール部の男子生徒が体罰を受けて自殺した問題が起きて以来、体罰の善し悪しやその防止策について議論が沸騰し、それに全日本女子柔道部監督の暴力問題も絡んで、師弟関係のあり方が問われてもいる。

わたしはこれらの問題はモラルの問題であるとして師弟関係のあり方について二つの点を提言したい。

第一に、それは人間の尊厳の問題である。人間はすべて、神聖にして不可侵の尊厳を有する。したがって、たとえ師弟関係にあったとしても、双方ともこの人間の尊厳を擁護することは社会正義の要求するところである。『カトリック教会のカテキズム』は教える。「社会正義は、人間の超越的な尊厳を尊重することなしには得られない。人間は社会の究極の目的であり、社会は人間に秩序づけられている」(n.1929)。

人間の尊厳の超越性とは、人間のいのちは創造主である神に結ばれているからである。カテキズムは教える。「人間のいのちは神聖である。なぜなら、人間のいのちはその起源から『神の創造のわざ』によって造られたものであり、またつねに、その唯一の目的である創造主との特別な関係の中にあるからである。神のみが、その始めから終わりまで、人間のいのちの主であり、したがって、だれも、いかなる場合にも、無辜のいのちを故意に断つ権利が人間にあると主張することはできない」(n.2258)。

さらに言えば、人格の超越的な尊厳は、子弟双方に平等である。カテキズムは教える。「人間は、人格の尊厳とそれに由来する諸権利において、本質的に平等である」(n.1935)。教師も生徒も、互いに平等の尊厳と基本的人権を共有しているのである。

以上のことから、教師と生徒の師弟関係においては双方とも「正義」と「愛」が要求される。特に教師は生徒に対して優位にあることから、格別に生徒に対して正義と愛を順守することが求められる。ここに言う正義とは、生徒の人格の尊厳とその基本的人権を擁護することであり、愛とは、一途に生徒の善のために尽くすことである。その点からすれば、たとえ試合に勝って学校の名誉を守ろうと意図したとしても、生徒の自殺を引き起こすような体罰は、生徒に対する正義と愛に甚だしく反することである。

第二点として、教師の教育的権威についてである。先に見たように、人間はすべて、種々の違いがあるにもかかわらず、その本質において平等であり、教師の教育的権威、すなわち、生徒に命じて従順を要求する権利は、自分から来るものではありえない。では教師の教育的権威はどこから来るのか。直接的には、教師の任命権者から来るものであり、しかも、生徒の両親からの委託があってはじめて行使できる権威である。そして究極的には、教師の教育的権威を含めて、すべての権威は神に由来するものである。

聖書は教える。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものなのです」(ローマ13,1)。それゆえ、生徒は教師の正しい命令に従うべきであるが、同時に、教師もまた、究極の任免権者である神の意図するところに従ってその権威を行使しなければならないのである。つまり、教師は常に生徒の人格の尊厳とその権利を擁護しつつ、生徒の人間性の向上を通してその人格形成に奉仕しなければならないのである。いささかも自分や学校の都合のために生徒に損害を与えてはならない。教師の責任が人々の前に、そして神の前に、つねに問われていると言わなければならない。

現今のわが国の状況を見るに、学校教育においてばかりでなく、あらゆる方面に人権侵害が行われていることが分かる。たとえば、無辜の胎児を殺す人工妊娠中絶、幼児や児童虐待、学校におけるいじめや暴力、社会における殺人や暴力などの人権侵害が毎日のように報道される。したがって、学校における体罰やスポーツ選手育成における暴力の是非を問う前に、人権思想の徹底を図ることが、体罰防止の優先課題でなければならないのではないか。