浜矩子著『新・国富論』を読んで

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浜矩子著『新・国富論』を読んで

カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/03/10/ 00:00]

昨年暮れ、浜矩子著『新・国富論―グローバル経済の教科書』(文春新書)が出版された。 「アダム・スミスになり代わって世界経済を読み解く」とカバーにある通り、今日のグローバル経済について語っていることにひかれて興味深く読ませてもらった 。

浜矩子さんと言えば、わが国の経済学者の中では特異の存在だと早くから注目していたのだが、ある論文で自分はカトリック信者であると告白されているのを見て、さもありなんという思いであった。この本でも、浜さんの本領はいかんなく発揮されていると思う。グローバル化した経済につての次の言葉はそれをよく示している。

「グローバル時代は奪い合いの時代にあらず、分かち合いの時代なり」(32ページ)。

経済について素人のわたしにはこの本を評価したリ批判したりする資格も意図もないが、ただ、この短い言葉は、キリスト教の思想とぴったりであることに注目したい。グローバル時代の経済学が必然的にキリスト教に近づいたのか、キリスト教が現代経済学に光をもたらしたのか、その両方であろうと考えながら、キリスト教にける分かち合いの思想とその前提となる思想について紹介したい。

まず、キリスト教の清貧の思想は分かち合いの思想である。次の引用は『カトリック教会のカテキズム』である。

「真福八端がいう貧しさとは分かち合いの徳のことであって、それは、ある人々の豊かさが他の人々の窮乏に役立つために、強制によってではなく愛によって、物的・霊的善を共有し分かち合うようにという呼びかけである」(n.2833)。

ここに言う「真福八端」とは、マタイ福音書第5-6章に出てくるキリストの山上の垂訓の冒頭に出てくる「幸いなるかな」で始まる8カ条であって、その最初に「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(新共同訳マタイ5,3)とある。この貧しさは清貧の徳と呼ばれ、分かち合いへの呼びかけとされているのである。

この分かち合いの思想の前提となるのは、世界とその富が人類全体に与えられているということであり、いわゆる「1パーセント」の金持のためではない。したがって世界の富は私的所有としてすべての人に公平に分配されなければならないことを教会は教えている。『カトリック教会のカテキズム』は言う。

「はじめに、神は、人類が地とその資源に手を加え、労働によって働きかけ、その実りを享受するよう、人類の共同の管理に委ねられた(創世記1,26-29参照)。創造された資源は全人類に与えられたものである。しかしながら、土地は、欠乏や暴力の危険にさらされる生活の安全を保証するために、人々に分配された。財貨の私有は、人間の自由と尊厳を保証し、自分や扶養すべき人の基本的必要を満たすよう各々を助けるために、正当なことである。それは、人々の間の本来の連帯性を示すものとして許されるべきことである」(.2401)。

「労働を通して得られた、あるいは遺産もしくは贈与として他者から受け取った財貨は、人類全体への原初の土地贈与を無効にするものではない。たとえ共通善を促進するために私的財産とその権利およびその使用が求められるとしても、財貨の普遍的使用目的は前提とされるべきものである」(2403)。

「人間は、財貨の使用に際して、正当に所有する物件が自分だけに属するものと主張してはならず、それは同時に共有のものであるものと見なさなければならない。すなわち、財貨は自分のためだけでなく他者のためにも役立てることができるという意味である(現代世界憲章69参照)。一定の財貨の所有はその所有者を神の摂理の管理者とするものであって、その財貨を運用して、その成果を他者と、そしてまず隣人と分かち合うべきである」(2404)。

『カトリック教会のカテキズム』はここで、所有権の正しい行使に関して政治の役割を指摘して言う。「政治的権威は、共通善のために、所有権の正しい行使を規制する権利と義務をもっている」(同2406)。

この最後に言われる経済をコントロールする政治権力に関連して、浜さんは主張する。市場の動きに任せれば経済の恩恵は自然にみんなに行き渡るという、アダム・スミスの「見えざる手」はグローバル経済には通用しない。グローバル時代の経済は「ヒト・モノ・カネ」の順序が逆になって「カネ・モノ・ヒト」となり、金融資本主義が暴走する時代には、「見える手」、すなわち政治権力のコントロールが必要であり、しかも、経済が国境を越え、世界全体が一つの経済体制になった現在、一国の政権によるばかりでなく、G20などの国際機関による規制が必要である。