人間労働の価値と目的について

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人間労働の価値と目的について

カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/04/25/ 00:00]

今、わが国ではアベノミクスのおかげか、就職難は少しずつ改善されているようだが、非正規労働者の問題は解消されるどころか、増加の傾向にあるように思う。人間の労働とは何か、メーデーを前に、あらためて考えて見たい。

まず、『カトリック教会のカテキズム』(以下、カテキズム)の教えを見てみよう。

「人間の労働は人間の人格性に直接由来する。なぜなら、人間は神の似姿として造られており、地を支配することを通して、他者と共にまた他者のために、神の創造の業を継続するよう召されているからである。それゆえ、労働は義務である。「働きたくない者は食べてはならない」(2テサロニケ3,10)。労働は創造主の贈り物といただいた能力を尊ぶことである。労働はまた、罪の贖いとなることができる。ナザレの職人でありカルワリオで十字架に架けられたイエズスに一致して労働の労苦を引き受けることを通して、人間は、あがないの業において神の子と一定の仕方で協働するのである。人間は、果たすべく召された活動において、日々、十字架を担うことを通してキリストの弟子であることを示すのである。労働は聖化の手段となり、そして、キリストの霊において地上の諸現実を活性化するものとなることができる」(カテキズム2427)。

「労働において、人間はその本性に記された能力の一部を生かして完成する。労働の第一の価値は、労働の主体であり目的である人間自体にある。労働は人間のためであって、人間が労働のためにあるのではない」(カテキズム2428)。

労働は、人間の本性に根ざすもので、人間による人間のためのものであることをしっかり確認しておきたい。そのうえで、労働の目的についてカテキズムは述べる。

「人間は各々、労働の中に、自分と家族の必要にこたえる手段、そして人間共同体に奉仕する手段を引き出すこと出来なければならない」(同上)。

人間はみんな、働くことを通して自分と家族の需要を満たし、社会に奉仕するのでなければならないのだが、往々にしてそのようにうまく運ぶものではないのが世の常ではないか。この文明開化かの時代に、世界中で失業者があふれ、大学は出たけれど就職口が見つからず、あるいは非正規労働者として低賃金に耐え。結婚もままならないとの嘆きが世に満ちている。一体だれの責任か。カテキズムは言う。

「労働と職業の機会は、不正な差別なく、男と女、健常者と身障者、土着人と移住者のすべての人に開かれていなければならない。社会は、状況に応じて、市民たちが労働と雇用にあずかれるように、これを援助しなければならない」(カテキズム2433)。

さらに、適正賃金についてカテキズムは強調する。

「適正賃金は労働の正当な結果である。これを拒否し、あるいは保留することは重大な不正である。公正な報酬を評価するためには、各々の必要と貢献度とを合わせて考慮しなければならない。『労働の報酬は各自の任務と生産性、企業の状況と共通善を考慮したうえで、本人とその家族に物質的・社会的・文化的・精神的生活をふさわしく営むことのできる手段を保証するものでなければならない』(現代世界憲章67)。両者の間の合意は、道徳的にいって、賃金高を正当化するには十分とは言えない」(カテキズム2434)。

わが国現状を見れば、賃金の査定に当たって企業本位であることは確かであり、賃金交渉における労働者は常に弱い立場に置かれている。公権の責任や各企業の社会的責任が問われている。

カテキズムは経済活動における国の責任について次の文面が見られる。「労働と生産に従事する人々が自己の労働の成果を享受し、それによって有能かつ誠実に働こうと思えるように、諸条件の安定を保証することが国家の第一の任務となる」(2431番)。労働の公平な配分についての貢献の責任は、今や一国の教会を超えて、国際的・グローバル的規模において分かち合いを推進すべきに時に来ていることは周知のとおりである。

また企業の責任については、「利潤の増加だけでなく、人々の善益を孝慮しなければならない」(2432番)と述べて、労働者や社会に対する責任を述べている。このような責任を軽視し、新自由主義や市場原理主義に基づいて自己の利益だけを追求することは、社会正義に対する愚かな挑戦にすぎないことを自覚すべきであろう。労使交渉における労働者側の弱さを補い、労働者の権益を守るために、労働組合の果たすべき使命があることも、ここに強調しておきたい。