家庭は「社会の生きた細胞」

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家庭は「社会の生きた細胞」

カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/05/10/ 00:00]

東北大震災や福島原発事故を契機に家族のきずなの重要性が改めて認識されることになったが、その一方で相変わらず家庭の崩壊が進んでいる。わが国の将来を考えるとき、家庭の健全化のための努力は欠かせない。では、家庭とは何か。

『カトリック教会のカテキズム』(以下、カテキズム)は家庭と社会について次のように述べる。

「家庭は社会生活の原初の細胞である。家庭は自然的社会であって、そこにおいて夫と妻は、愛することと生命を伝達することの中で、自己を与え合うよう召されている。家庭における権威と安定性と共同生活は、社会における自由と安全と兄弟愛の基礎となる。家庭は共同体であって、その中で、幼い時から道徳的価値と神への畏敬、そして自由の正しい行使を学ぶことができる。家庭生活は社会生活への手ほどきとなる」(2207番)。

社会における家庭の権利・義務に関するこの重大な教えについて、順を追って説明してみよう。

1-家庭は社会生活の原初の細胞である。

つまり、社会は家庭から始まり、家庭によって成り立っているということである。それゆえ、「家庭は社会の生きた細胞である」と言われてきた。したがって、「家庭の健全性は社会の健全性のバロメーターであると言われてもきたのである。社会が健全であるのは家庭が健全であるからであり、社会が乱れているのは家庭が乱れているからだと言ってよい。

2-家庭は自然的な社会である。

つまり、神が定めた人間の本性から直接出てくる社会であって、人間が定めた制度ではないということである。そのあたりの事情は旧約聖書に説明されている。すなわち、「神はご自分にかたどって人を創造された。人を神にかたどって創造され、男と女に創造された。神は彼らを祝福して仰せになった。『産めよ、増えよ、地に満ちよ、そして地を従わせよ』(創世記1,27)。別の個所で言われる。「それ故、男は父母を離れて、妻に結ばれ、二人は一体となる」(創世記2,24)。

3-家庭において、夫と妻は、愛することと生命を伝達することの中で、自己を与え合うよう召されている。

つまり、正式の結婚によって成り立つ家庭は、夫婦が愛し合って、すなわち互いに自己を与え合うことによって夫婦の一致と子どもの出産と養育を目指す場である。

4-家庭の権威、安定性、共同生活は、社会における自由と安全と兄弟愛の基礎となる。

つまり、結婚の制約は神の前でかわされたものであって、「神が合わせたものを、人間が話してはならない」(マタイ19,6)のである。また子どもの誕生に伴う神秘は、両親が神の協力者であることの確か証拠であり、家庭はいのちの聖域であり、不可侵であると言われる通りである。この家庭の神的権威は生涯不解消の夫婦のきずなによって安定的に守られるものであって、それはまた、親密な共同生活を意味している。この家庭が社会における自由と安全と兄弟愛の実践に資することは何よりも明らかである。

5-家庭は共同体であって、その中で、幼い時から道徳的価値と神への畏敬、そして自由の正しい行使を学ぶことができる。

つまり、親の権威のもと、無償で助け合う親密な家族共同体の生活の中で、必要な敬神徳と同時に、愛と正義を中心とする社会的徳を身につけることができる。

6-家庭生活は社会生活への手ほどきとなる。

つまり、正常な家庭生活は子どもたちを真の社会人として必要な徳性を身につける最初の貴重な学校であると言われるゆえんである。

以上のように、家庭は社会を生かす細胞として何ものにも代えがたい宝であるが、しかし、現今のわが国の事情を見れば、その家庭がさまざまな障害に見舞われて崩壊の一途たどっているように思えてならない。生涯独身を選択するものが増え、たとえ結婚しても子どもを残して離婚するケースも増加し、家庭内暴力は言うに及ばず、親殺し子殺し事件も連日報道される。おまけに、第三者の精子や卵子を用いて試験管ベービーをはじめ、シングルマザーがもてはやされ、欲望にすぎない同性愛を権利でもある間のように主張して同性婚を公認化も進んでいる。欲望と権利の区別もつかないまま、家庭崩壊記事を書きたてるマスメディアも、家庭崩壊に手を貸していると言えないか。

世の秩序を守り、万民の幸せを図るために、家庭崩壊の流れを止めるのは急務である。そして、健全な家庭を守り促進するのは社会全体の、特に政治と行政の補完的責任であることも、ここに強調しておきたい。