憲法改正言論議について思うこと
カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/05/25/ 00:00]
安倍自民党政権の誕生によって憲法改正論議が盛んになった。憲法を改正するのは国民であって、両議院の3分の2以上の発議に基づき、国民投票の過半数の賛成を得て成立するから、国民一人ひとりの意識を高め、国民的議論を盛り上げることは重要であり、これは国政選挙における投票行動にも影響する。
教会が所轄する分野は霊的秩序であって政治の世界ではないから、憲法改正論議に直接かかわることはない。しかし、国の政治も人間の行為であり、人間の行為である以上、その倫理性が問われる。その意味で、国家存立の基本的条件を定めた根本法である憲法改正にあたって、人間とは何か、国家とは何か、国民と国家の関係はどうあるべきかについて述べることは教会の権利であり義務でもあると確信する。そこで、参考のために、教会の教えに従って個人と社会、特に国民と国家の関係について考えたい。
そもそも人間には果たすべき使命がある。人生それ自体が召命(vocation)だからである。つまり、神は人間をある目的のために創造した。その目的とは、人間が神の姿を表し、神の独り子の姿に変えられることである。換言すれば、それは一人ひとりの人間が他者と協力して、三位一体の一致に似た共同体を作ることを意味する。そのため、人間は隣人と交わり、互いに助け合い、兄弟的対話を通して自らの召命に答える必要がある。つまり、人間は社会生活を必要としているのである。
このように、人間はどうでもよい存在ではない。人間は一人ひとり、自分にとっても、お互いにとっても、なくてはならない、かけがえのない存在なのである。したがって、人間は社会を作り社会を生きる。人間社会は実にさまざまである。家庭や国家のように、人間の本性に根ざした必然的な社会のほかに、種々の目的のために、すなわち経済、文化、社会、スポーツ、娯楽、職業、政治などのために団体や組織を作る必要があり、またそのことが奨励もされている。こうした動きを称して「社会化」という。
人間の社会化に当たってまず必要なことは、社会化によって造られた各共同体は、それぞれの目的に従って限定され、独自の規則に従うわけだが、しかし、それらの組織の起源、主体、そして目的は、ペルソナである人間、いわゆる人格であり、またそうでなければならない。各共同体は一人ひとりの人間のために存在するのであって、その逆ではない。その意味では、たとえば国家にとって優先すべきは経済ではなく文化である。国内的にも国際的にも、富を独占してぜいたくに暮らすより、みんなで分かち合って人間らしく生きることが先決なのである。
人間が所属するさまざまな社会ないし共同体には序列があって、上位の社会は下位の社会補完するのでなければならない。たとえば、国家の過大な干渉が個人や家庭の自由や発意を妨げることがあってはならないのである。この原理を「補完性の原理」(または補助性の原理、ラテン語でprincipium subsidiaritatis、フランス語でle prinsipe de subsidiarite)という。この原理に従えば、上位の団体は下位の団体からその役割を奪い、その内部生活に干渉すべきではなく、かえって絶えず共通善の立場から、必要な時にこれを支え、これらの相互の活動を調整すべきなのである。
その意味で、一国の憲法を考えるとき、国家権力が国民の自由や発意を奪い、国民を国の支配下に拘束することないよう、賢明に公権の力を制限すると同時に、国民の人間的尊厳とその基本的人権を明らかにすることが必要である。その点、現行の日本国憲法の第三章『国民の権利及び義務』の条項は貴重であり重大であって、時代の進展と共に出てくる新しい事態に対応して憲法を改正することがあっても、人類普遍の人格の超越的尊厳とその基本的人権については、いささかの変更も許されないことを肝に命ずべきである。
自民党政権の憲法改正の提案について安倍首相が強調する「日本の文化伝統に立ち返る」という提言が何を意味するか、必ずしも明確ではないが、彼がもともと固執する靖国神社参拝のことを考えると、信教の自由に関する基本的人権にかかわることがないかどうか、判然としない。現在、靖国神社は宗教法人化されており、祀られている、いわゆる英霊を信仰の対象としている以上、国民の靖国神社参拝を強制し奨励するようなことがあれば、それは信教の自由を侵すことになりかねない。
第9条の改正にあたって慎重であることはもちろんだとしても、それ以上に、信教の自由の問題は、家庭や教育や教会活動など、幅広い影響があるだけに、細心の注意が必要であることをここに強調しておきたい。