サンフランシスコ講和条約から62年
カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/08/25/ 00:00]
サンフランシスコ講和条約が締結された1951年9月8日、わたしはカナダのモントリオール大神学院にいた。第二次世界大戦で日本が戦ったいわば敵国で、大勢の欧米人の中で聞く講和条約調印のニュースはまた、格別の体験であった。
当時、モントリオール大神学院にはカナダ人神学生のほかに、フランコ・アメリケンと呼ばれるフランス系アメリカ人神学生も多くいた。サンフランシスコ講和条約の締結が報じられた日、同級生の一人のアメリカ人神学生が「おめでとう」と言ってわたしに握手を求めてきた。彼は40歳台で、ヨーロッパ戦線に従軍した元米軍将校であった。同じ人間が敵・味方に分かれて殺し合う戦争の醜さ、愚かさを実体験した彼だからこそ、太平洋戦争を終結させる日本との平和条約も大きな喜びであったに違いあない。
学年は違ったが、もう一人のアメリカ人神学生のことが思い出される。彼は元横浜駐留の米軍兵士で、アメリカ軍が日本人に対して犯した罪を償うために神父になることを決断したとわたしに語った。血なまぐさい戦闘から解放された占領軍にとって、その生活環境は誘惑に満ち、多くの罪の機会となったのであろう。仲間たちの罪を償うために司祭になろうと決心した元アメリカ兵神学生の心根に心を打たれたのであった。
ちなみに、原爆によって教会を破壊され、多くの仲間を失った長崎のキリシタンたちが、兵隊だけでなく、多くの市民を巻き込んで殺し合う戦争自体が、人類の大罪としてこれを償わなければならないとの責任感のもと、原爆による多大な被害と悲しみを人類の罪に対する償いとしてささげて神のゆるしを願い、自分たちも原爆を落とした敵を許して世界平和を祈ったことが思い出される。ややもすれば無差別爆撃や原爆投下に対する怒りや避難に走りやすいが、罪のゆるしと平和を願う心を忘れてはなるまい。
サンフランシスコ講和条約は終戦から6年目のことであった。あの日本敗戦の年、1945年の夏、多くの日本人が、かつて「鬼畜米英」と呼んだその軍隊が、今勝利者となって進駐してくることに「何をされるかわからない」と恐れていたが、実際に目にしたアメリカ兵は極めて陽気な人々で、気さくにチュウインガムやチョコレートを子どもたちに配るのを見て安堵の胸をなでおろした。そればかりではない。当時長崎では、米軍将校が日本人神父の前にひざまずいて祝福を受けたことが評判になった。日本人もアメリカ人も同じ人格の尊厳をもつ兄弟として、恩讐を超えた敬神と友好の姿に、カトリック信者ばかりでなく、一般の人々も感銘を受けたのであった。
こうした体験に鑑み、多くの欧米人の友情の輪の中で、講和条約の朗報を聞く喜びは一入であった。人類は多くの国や民族から成り立ち、多様な文化や習慣の中に分かれて暮らしているが、人間としての本質においては互いに同等であり平等であって、世界の富を共有の遺産としてこれを分かち合いながら、平和に暮らすのが本来であり、当然のことであることを誰も疑いはしない。それなのに、あの講和条約締結から62年、世界の至るところで戦争やテロが横行し、わが日本の周辺も何やらきな臭い雰囲気が漂い、安倍自民党政権も「右傾化」の疑いをもって見られてもいる。
そこで、わたしたちはあらためて戦争やテロの愚を思い起こし、世界平和の尊さと、そのために知恵と力を注ぐことの使命感を、ここの新たにしなければならない。そして、人類の罪からの救済と神の子らとして一致と平和を実現するために、人間となってこの世に来られ、十字架の上に犠牲となられたキリストのことを思い起こしたい。キリストの死は「散らばっている神の子らを一つに集めるため」(ヨハネ11,52)であった。聖パウロは断言する。「実にキリストご自身こそ、わたしたちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにし、ご自分の肉において、人を隔てていた壁、すなわち、敵意を取り除き、(…)二つのものをご自分に結び付けることによって、一人の新しい人を造り上げ、平和を実現されました」(エフェゾ2,14-15)。
世界52カ国が参加したサンフランシスコ講和条約には旧ソ連、ポーランド、チェコスロバキヤが参加せず、沖縄問題など積み残しもあったと言われるが、それでも人類一致を目指す新しい平和条約として、これを実効あるものとする使命はいまも継続していることを忘れるべきではない。