金銭欲は諸悪の根源
カテゴリー カトリック時評 公開 [2013/12/10/ 00:00]
今年もクリスマス・シーズンとなった。クリスマス、すなわちキリスト降誕祭の意味を理解するキーワードの一つは「貧しさ」(清貧)である。完全な豊かさの中におられた神の子が、人類の救いのために「貧しさ」の中にお生まれになったからである。
キリストは、なぜ、自らを貧しい者とされたのか? 聖パウロ言う。「主は豊かであられましたが、あなた方のために貧しくなられた」(2コリント8,9)。教会はこの言葉を、キリストがその貧しさをもってわたしたちを豊かにするためであった、と解釈する。なぜなら、人間が神の救いにあずかるためには、富への執着から解放されなければならないからである。
確かに、人間は生きていくために富、今でいえば金銭を必要とする。しかし、金銭をもって代表される富や財貨は生きていくための手段であって、目的ではない。しかし、多くの場合、人間は手段である金銭に目がくらんでこれを目的に変えてしまった。そのために、目的である神から離反してしまったのである。
昔から、教会は罪を定義して、「神から離反して被造物に執着すること」と教えてきた。人間は神によって造られ、神によって生かされているのに、神に依存して存在でしかない被造物に執着して神を捨てるのが罪なのである。そして罪の結果、人類に死が入ったと聖パウロは次のように言う。「一人の人間によって罪が世に入り、その罪によって死が入り、こうして、すべての人間が罪を犯したので、死がすべての人間に及んだ」(ローマ5,12)。
そこで、聖パウロの愛弟子テモテに宛てた第一の手紙の中で、「金銭の欲は、すべての悪の根源です」(1テモテ6,10)と書いた。ここで、「すべての悪の根源」とはよく言ったものだ。「カネがなければ何にもできない、カネさえあれば何でもできる」と言って、カネに自分の幸福を賭ける精神を言っているのだ。この果てなき金銭欲が多くの罪を産み、その行きつく先は「死」であるに違いない。罪と死がある限り、人間は求めたやまない幸福を手に入れることができない。そこで憐れみ深い神は、人間を罪と死から救うために最愛の独り子を世に遣わされた。聖書は言う。「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,16)。
しかし、人間が神からのこの救いにあずかるためには、金銭欲を捨てなければならない。この世の富への執着から完全に解放されて、真の目的であり救いである神に立ち返らなければならない。神から離反して被造物に執着した人間は、逆に、被造物から決別して神に立ち返るのである。この心の転換を、「回心」と呼ぶ。
この転換、この回心は、徹底的かつ決定的でなければならない。キリスト言われた。「誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、または、一方に親しみ、他方を疎んじるかである。あなた方は神と富に仕えることはできない」(マタイ6,24)。
残念ながら、多くの人が現世的な御利益に執着して離れることができず、あるいはカネと神とに兼ね仕えようとし、あるいはカネのために神を利用しようとさえするのではないか。クリスマス・セールも商売繁盛を願う初詣でもそうでないと言いきれるか。ベトレヘムで貧しく御生まれになった神の御子は、その貧しさによって人間に教え、その模範に徹底して従うよう望まれたのである。そして、「あなた方によく言っておく。金持ちが天の国(筆者注:神の救い)に入るのは、難しいことである。重ねて、あなた方に言っておく。金持ちが天の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」(マタイ19,23-24)。
これは、徹底した清貧への勧告である。しかし、それはこの世の富、金銭が必要ではないという意味ではない。この世に生きる限り、人間はパンを必要とし、適切な財産の私有を必要とする。ただし、それはあくまで手段としてであって、目的としてではない。この清貧の精神に徹すれば、この世の富は人類全体の普遍的な共同使用のためであって、これを独占することなく、必要に応じて公平に分かち合うことを可能にする。清貧の徳は「分かち合いの徳」(『カトリック教会のカテキズム』2833)とも呼ばれるのである。
「金銭欲は諸悪の根源」という言葉を繰り返し想起しながら、妙に石川五右衛門作と言われる歌が思い浮かんだ。「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」。民間の詐欺事件から国際社会における富裕層の富の独占事件まで、おカネにまつわるトラブルが相変わらず頻発し、環境破壊や人間性喪失が進み、諸悪が拡散する。
クリスマスを迎えるにあたって、キリスト生誕の神秘の中に「貧しさ」の意味を、あらためて静かに黙想したいと思う。