「神の子」が「人の子」となった日
カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/03/25/ 00:00]
きょう、3月25日は、「神の御ひとり子の受肉と、それを知らせる天使の言葉を信仰をもって受け入れたマリアの承諾を思い起こす祭日」であり、「神のお告げ」と呼ばれる。いわば神と人とが一つに結ばれた日である。
そこで、イエス・キリストは「真の神であり真の人間である」という教義をカルケドン公開議(451)で宣言した聖大レオ教皇の手紙を、以下に紹介しよう。世界中の司祭たちが聖務日課で読んだ手紙である。
―――尊厳は卑しさを、力は弱さを、永遠性は死すべき状態を受け取りました。そしてわたしたち人間の担っている負い目を解くために、侵しがたい本性は苦しみうる本性と結合したのです。こうして、神と人との唯一の仲介者である人間イエス・キリストは、その一つの本性のゆえに死に得ないものとなりました。このことこそ、わたしたちを癒すためにふさわしいことでした。
そこで、真の神は、完全無欠な真の人間性をもって生まれたのです。神なる主は、自己に固有なものをすべて完全にもち、わたしたち人間のものもすべて完全にもっているのです。わたしが今、「わたしたち人間のもの」と言ったのは、もちろん、創造主がわたしたちを造られたとき初めに創造され、さらに回復するために受け取られた物を指しています。
人を欺いた悪魔がもたらし、人が悪魔に欺かれて受け入れたものは、救い主のうちにはその痕跡さえ見出されないからです。主は、人間性の弱さを共にされたからといって、わたしたちと罪を共にされたわけではありません。
主は、罪に汚れることなくしもべのかたちをとられました。主は、人間性を高められましたが、神性を減らすようなことはなさらなかったのです。主が見えないものでありながら見えるものとなり、万物の創造主でありながら死すべきものとなるほど己をむなしくされたことは、あわれみの心から出たへりくだりであって、力の喪失ではなかったのです。したがって、神のかたちをもつ者として人間を造られた同じ主が、しもべのかたちをとって人間となられたのです。
こうして天上の玉座から降りながら御父の栄光から離れず、神の御子は新しい次元に、新しい誕生によって生まれ、この低い世の中に入って来られます。
「新しい次元」と言ったのは、ご自分の本質においては見えない方が、わたしたちの本質においては見えるようになられ、把握できない方が把握できるようになられ、すべての時間に先立つ方としてとどまりながら、時間的なものとして存在しはじめられ、万物の主でありながら、ご自分の限りない意向を隠し、しもべのかたちをとられ、苦しみ得ない神でありながら、苦しみうる人となることを拒まれず、不死でありながら、死の法則に従うことをいとわれなかったからです。
真に神である方が、同時に真の人でもあるのです。この一致においては、どのような偽りも介入しないほど、卑しい人間と偉大な神とは相互に一致しています。
神はあわれみを示されるとき、変化を受けず、同様に人間の品位が高められるとき、人間はなくなりはしません。それぞれのかたちは、互いに交わりながら各々の固有性に従って行動します。すなわち、ことばはことばとして固有な働きを行い、肉体は肉体として固有な働きを行うのです。
これらの一方は奇跡にきらめき、他方は侮辱に屈します。ことばは御父と等しい栄光を失わず、肉体はわたしたち人類の人間性を捨てません。
それはたびたび述べなければならないことですが、同じ唯一の方が、真の神の子であり、真の人の子であるからです。神、それは「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」(ヨハネ1,11)からです。人、それは「ことばは 肉となって、わたしたちの間に宿られた」(同1,14)からです。