キリストによって明かされた“人類の秘義”

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > キリストによって明かされた“人類の秘義”

キリストによって明かされた“人類の秘義”

カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/04/10/ 00:00]

今年の復活祭は4月20日である。復活祭はキリスト教最大の祝日である。人となった神の子キリストの死と復活によって、人類が救われたことを記念する日だからである。復活祭は同時に「人類の秘義」が明らかにされた祝日でもある。

人間とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか、という問いは人間最大の、そして究極の問いであるが、その答えは、人となった神の子キリストによって与えられた、とわたしたちは信じて疑わない。第2バチカン公会議の言うところを次に聞いてみよう。

「実際、人間の秘義は肉となられたみ言葉の秘義においてでなければ本当に明らかにはならない。事実、最初の人間アダムは未来の人間すなわち主キリストの予型であった。最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。

“見えない神の像”(コロサイ1,15)である方ご自身は完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。人間性はキリストの中に取り上げられたのであって消滅したのではないから、このこと自体によって、われわれにおいても人間性は崇高な品位にまで高められたのである。事実、神の子は受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた。キリストは人間の手をもって働き、人間の頭をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛した。彼は処女マリアより生まれ、信じいつにわれわれの一人となり、罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じであった。

汚れなき子羊であるキリストは、その血をすすんで流すことによって、われわれのために生命を獲得した。神はキリストにおいて、われわれをご自分と和解させ、また、われわれの間に和解をもたらし、悪霊と罪との奴隷状態からわれわれを救い出した。その結果、われわれ各自は使徒とともに次のように言うことができる。神の子は”わたしを愛し、わたしのために自分を渡した“(ガラテア2,20)。キリストはわれわれのために苦しみを受けることによって、われわれがその跡を踏むよう模範を示されたばかりでなく、新しい道を開かれた。われわれがこの道に従うならば、生と死は聖なるもとなり、新しい意味をもつのである。

キリスト者は無数の兄弟の中の長子である御子の姿に似たものとなり、愛の新しい掟を成就することを可能にする“霊の初穂”(ローマ8,23)を受ける。“相続の保証”(エフェゾ1,14)であるこの霊によって人間全体は”肉体の復活“(ローマ8,23)に達するまで内面的に刷新される。”死者の中からイエスをよみがえらせた神の霊があなた方の中に住んでいるならば、死者の中からイエス・キリストをよみがえらせた神は、あなた方の中に住むその霊によって、あなた方の死すべき肉体にも生命を与えるであろう“(ローマ8,11)。確かにキリスト者にとっては、多くの苦難を通して悪と闘い死をも耐え忍ぶことは必要であり義務でもある。しかし復活秘義に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。

このことはキリスト者についてばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。実際、キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものであるから、聖霊は神のみが知りたもう方法によって、すべての人に復活秘義にあずかる可能性を提供されることをわれわれは信じなければならない。

キリスト教の啓示が信じる者に照らしだす人間の秘義はこのように偉大なものである。したがって、苦しみと死の謎は、キリストにより、キリストにおいてこそ解明されるが、キリストの福音の外にあっては、われわれを押しつぶしてしまう。キリストは復活し、その死をもって死を破壊し、われわれに生命を与えた。こうして、われわれは御子において子となり、霊において、父よ、と叫ぶことができる」(現代世界憲章22)。