今年の復活祭の想い

今年の復活祭の想い

カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/04/25/ 00:00]

今年の復活祭は例年より遅くて4月20であったが、復活したキリストの最初のメッセージは“あなた方に平和があるように”(ヨハネ20,19)に注目した。国内も国際社会も千々に乱れ、争いや殺し合いが絶えない世の中、復活したキリストの平和の恵みは重大な意味をもつ。

人類が求めてやまない平和とは何か。聖アウグスチノは「平和とは秩序の静けさ」と言ったという。来る4月27日に列聖される福者ヨハネ23世教皇は「平和とは神が定めた秩序を守ること」(回勅『地上の平和』)と言われた。ここにいう秩序はとは心の平和、すなわち倫理的な平和であって、この秩序は人類の罪によって失われている。

だから、人類が平和を取り戻すためには「罪の赦し」が必要なのである。しかし、人間は自分が犯した罪を自分で償うことができない。ではどうすればよいか。人類の創造者である父なる神は、ご自分の独り子をこの世に贈り、人類に代わってその罪を償い、失った平和を人類に取り戻してくださった。「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された」(ヨハネ3,16)。

したがって、復活したキリストの恵みである「平和」は、「十字架」、すなわち、「罪の償い」と「ゆるし」を前提としている。これに関連して、ルカ福音書は興味ある事実を記している。キリストは二人の犯罪人の間に十字架に架けられたが、「犯罪人の一人が、イエスを侮辱して言った、『お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ』。すると、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて言った、『お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を畏れないのか。われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだから当たり前だが、この方は何も悪いことはなさってはいない』。そして言った、『イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください』。すると、イエスは仰せになった、『あなたによく言っておく、今日、あなたはわたしとともに楽園にいる』」(ルカ23,39-43)。

この物語は、イエス・キリストが、ご自分に罪がないのに、人類の罪を一身に背負って十字架の死を遂げ、人類にゆるしと平和をお与えになることを示している。そして、自らの罪を悔い改めてゆるしを願う者には、誰にでもゆるしと平和(楽園)が約束されていることを示している。復活したキリストのメッセージである「平和」は、まさに人間となった神の子キリストの「死と復活」の恵みなのである。

あえて言えば、人類が求めてやまない「平和」は、キリストによってのみ得られる賜物であって、キリスト以外の何者によっても得られない。人間が、政治であれ、民間であれ、あらゆる手を尽くして平和を希求するのは当然であるとしても、キリストの平和なしには真の平和を実現することはできないのである。

では、どうすれば復活したキリストの平和にあずかることができるか。その答えは、教会が行う洗礼と聖体の秘跡にあると言わなければならない。それは、ある意味で、イエスの十字架上の死を確認した時のエピソードに見ることができる。「兵士の一人が槍でイエスの脇腹を突き刺した。するとすぐに、血と水が流れ出た」(ヨハネ19,34)。この「血と水」を、教会は「洗礼と聖体の秘跡」の象徴であると理解してきた。たとえば、聖ヨハネ・クリゾストモ司教は「水は洗礼の象徴であり、血は聖体の秘跡の象徴です」と言っている。第2バチカン公会議は、「十字架上に眠るキリストの脇腹から、素晴らしい秘跡である教会が生まれたのである」(典礼憲章5)と宣言した。つまり、人は洗礼によって罪の赦しを得て教会に合体し、聖体の秘跡(ミサ)を行ってキリストの平和とその使命に豊かに生きるのである。

その意味で、復活徹夜祭における洗礼または洗礼の更新とこれに続くミサ(聖体祭儀)は最高の平和の祭典であるといっても過言ではない。