教皇の「世界広報の日」メッセージ

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教皇の「世界広報の日」メッセージ

カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/05/25/ 15:21]

カトリック教会では毎年、復活節第6主日に「世界広報の日」を催すが、今年は5月25日に当たる。広報の日は第2バチカン公会議の勧告によって始められたもので、「広報機関による教会の多種多様な使徒職がいっそう強化されること」(広報機関に関する教令18)を目的としている。

世界広報の日には「教皇メッセージ」が公表されるのが恒例で、今年も教皇フランシスコは「真正な『出会いの文化』に資するコミュニケーション」と題してメッセージを公表した。そして、次のように問題を提起した。

「今日わたしたちの住む世界は、ますます狭くなっています。その結果、わたしたち全員が互いに隣人となることは、より簡単になっていくかのようです。移動とコミュニケーション技術の発展は、わたしたちを互いに近づけ、より強く結び付けていきます。グローバル化もまた、わたしたちの相互依存をさらに加速させます。しかし、人類家族の中には分裂が存在し続け、非常に深刻になることもしばしばです。地球規模でみると、豪勢な金持と、ひどく困窮した人々の間に、あきれるほどの格差があります。多くの場合、路上生活者と、きらびやかなショーウィンドーの対比を見るには、都市で通りを数本歩くだけで十分です。わたしたちはそうした光景に慣れすぎてしまい、もはや心が動かなくなっています。この世界は、多種多様な排斥、疎外、貧困に苦しんでおり、経済的、政治的、思想的、そして悲しいことに宗教的動機さえもが入り交って生じる紛争にも苦しんでいることは言うまでもありません」

教皇のこの言葉を読みながら、わたしは一つのことを指摘しておきたいと思う。日本の教会が「広報」と訳しているのは、ラテン語のCommunicatio Socialis(英Social communications)」で、社会的コンミュニケ―ションと訳されるのが普通だが、コンミュニケ―ションにこだわれば、社会的な「交換」ないし「交わり」と訳すべきではないかと思う。そうすれば、教皇の言う『出会いの文化』の意味がわかるのではないか。人間が互いに情報を交換することを通して交わり、そして一体となっていく姿をイメージすることができよう。

今日のメディアの発展は驚異的で、さまざまな情報機器が日ごとに生み出されて便利になっていくが、そうした世の中で、人々はますます分裂して孤独になり、個人エゴ、団体エゴ、そして国家エゴが蔓延して争いが絶えず、殺し合いも数知れない。この矛盾を乗り越えるにはどうしたらよいか。教皇は言われる。

「こうした世の中にあって、メディアはわたしたちが互いにより親しみを感じられるよう助け、人類家族の一体感を生み出すものです。その一体感があれば、連帯と、すべての人の生がもっと尊厳をもって扱われるようにするための、真剣な努力を引き出すことができるのです。よいコミュニケーションは、わたしたちをより近づけ、より親しく知り合うようにし、最終的には一体感を育てる助けとなります。わたしたちを隔てる壁は、互いに聞き合い、学び合うことにより初めて打ち壊されるものです。多様な対話によって、わたしたちは違いを乗り越える必要があります。『出会いの文化』は、ただ与えるだけでなく、受け取る準備もできていることを求めています。メディアはこのためにわたしたちの助けとなります。人のコミュニケーションのネットワークがかつてなく発展してきた今日、特にそうです。ことにインターネットは、出会いと連帯の可能性を限りなく提供してくれます。これはまことに善なるもの、神からの賜物です」

要するに、問われているのは、神の賜物である社会的コミュニケーション・メディアの目的、そしてその使命は、人類に分裂ではなく一致をもたらすことであり、その使命を達成するには、情報の送り手にも受け手にも、倫理の確立が必要であるということであろう。つまり、情報の送り手も受け手も、互いに人間であり、神の似姿として認めあうことが必要である。

メッセージの中で、教皇は、コミュニケーションが真正な出会いの文化に資するためには、メディアで出会う人間が互いに「隣人」であることが重要だと指摘される。その原点はルカ福音書10,25-37に語られる「傷ついた人の傷に油とぶどう酒を注いで介抱した善きサマリア人のイメージであると言われる。コンミュニケ―ション・メディアで出会うすべての人が互いに隣人にならなければならないという教皇の指摘はいかにも新鮮で、画期的でさえある。