キリストはいまも生きている

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > キリストはいまも生きている

キリストはいまも生きている

カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/06/10/ 00:00]

作成者 P.Itonaga — 最終変更日時 2014年05月25日 15時06分

人類の唯一の救い主であるイエス・キリストはいまも生きておられ、救いのわざを続けておられる。教会はそのことの証人であり、今年も、4月20日の復活祭から6月8日の聖霊降臨祭までの復活節の間、キリストの復活とその恵みについて記念してきた。

キリストは生前、ご自分の受難と復活について弟子たちに予告された。「この時から、イエスは、ご自分がエルサレムに行き、長老、祭司長や、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺され、そして三日目に復活することを、弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ福音書16,21)。

この予告通り、イエスは十字架上に死んで三日目に復活し、弟子たちに現れてご自分が生きていることを証明された。たとえば、ペトロは次のように証言している。「神はこの方を三日目に復活させ、現れさせてくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、神から前もって選ばれた証人であるわたしたちだけにです。わたしたちは、イエスが死者の中から復活された後、食事を共にしました。そして、イエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として、神によって定められた者であることを、民に宣べ伝え、かつ証言するようにと、わたしたちにお命じになりました」(使徒言行録10,40-43)。

こうしてキリストが選んだペトロを頭とする12人の使徒と異邦人の使徒パウロとはキリストの「復活の証人」とされた。つまり、使徒とは「キリストの復活の証人」であるということである。このことは次のエピソードでもわかる。キリストの復活のあと、聖霊降臨の前に、主を裏切ったユダの代わりに使徒団に加えられたマチアの選出の際、選出の条件としてペトロは言った。「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼の時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中らだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」(使徒たちの宣教1,21-22)。

では、なぜ主の復活が大事なのか。キリスト教信仰はキリストの復活にかかっているからである。聖パウロは言った。「キリストが復活しなかったとしたら、わたしたちの宣教も無意味なものであり、あなた方の信仰も無意味なものとなるでしょう」(1コリント15,14)。つまり、キリストの福音が信じるに足るものであることは、主の復活によって決定的に証明されたのである。もしキリストが復活しなかったとしたら、その教えも空しい。

そしてキリストは「復活の証人」である使徒たちの土台の上に教会を建てられた。キリストは、「あなたは生ける神の子、メシアです」とキリストへの信仰を告白したペトロに言われた。「わたしもあなたに言う。あなたはペトロである。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」(マタイ福音書16,16-17)。この言葉は、ペトロが使徒団のかしらであったゆえに、教会は復活の証人である12使徒団を土台として立てられたと教会は確信している。そのうえ、キリストは使徒たちに、「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」(マタイ福音書28,20)と約束し、さらに聖霊の派遣を約束して言われた。「わたしが父のもとからあなた方に遣わす弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来る時、この方がわたしについて証ししてくださる」(ヨハネ15,26)。そして実際に聖霊を派遣して使徒たちの信仰を固められた(使徒言行録2,1-3)。使徒たちは聖霊に照らされtくぁすけられながら、主キリストのご意思に従って教会を建設し、指導した。

したがってキリストは、使徒たちとその後継者らによって導かれる使徒伝承の教会の中に生きておられ、聖霊とともに、教会を通して救いのわざを続けておられるのである。第2バチカン公会議が言うように、「地上の教会は、人間的要素と神的要素とからなる複雑な一つの実在を形成している」(教会憲章8)のであって、教会は罪深い人間の集団でありながら、聖霊を通してキリストご自身が生きて働く神聖な存在なのである。

聖書によってではなく、使徒たちの信仰の上に建てられた使徒伝承の教会は、復活したキリストとその霊によって生かされるばかりでなく、「復活の証人」としてキリストを宣べ伝えている。復活したキリストは昇天する前に、使徒たちを派遣して言われた。「聖霊があなた方の上に降るとき、あなた方は力を受けて、・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となるであろう」(使徒言行録1,7-8)。21世紀に生きている教会も、そのふところに多くの罪びとを抱えてはいるものの、教会の中で、教会と共に働くキリストによって、絶えず清められ、そして永遠の命に生かされている。そして、教会に生きて働くキリストを証すると同時に、「救いの普遍的秘跡」として、すべての人の永遠の救いのために献身しているのである。