教皇の’14平和メッセージ再読(1)

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教皇の’14平和メッセージ再読(1)

カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/07/25/ 00:00]

毎年、8月6日(広島原爆の日)から15日(終戦記念日)までの10日間は「カトリック平和旬間」であるが、この旬間を設定した日本カトリック司教団の想いの中に、平和を考える絶好のこの時期に、1月1日の「世界平和の日」の教皇平和メッセージをじっくり考えよう、という意図もあった。

そこで、「平和への道であり基盤である兄弟愛」と題する今年の教皇平和メッセージを、要約するだけではもったいないから、これから数回に分けてカトリック中央協議会訳の本文を読み、味わいたいと考えた次第。まずは序文から。
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1. このわたしの最初の『世界平和の日』メッセージにより、個人と諸国民を含めたすべての皆様に、喜びと希望に満ちたいのちが与えられるよう、お祈り申し上げます。実際、すべての人の心のうちには完全ないのちへのあこがれが宿っています。このあこがれには兄弟愛への抑えがたい望みも含まれます。兄弟愛はわたしたちを他者との交わりへと駆り立てます。こうしてわたしたちは、他者を敵や競争相手としてではなく、受け入れ抱きあう兄弟姉妹として見出すのです。

実に兄弟愛は、人間に不可欠の特徴です。人間は関係的な存在だからです。このような関係性をはっきりと自覚することにより、わたしたちはすべての人をまことの兄弟姉妹と見なし、接することができます。兄弟愛がなければ、公正な社会と堅固で持続的な平和を築くことはできません。すぐに次のことを思い起こす必要があります。わたしたちは普通、兄弟愛を家庭の中で、とくに家族全員――とりわけ両親――が補い合いながら担う責任ある役割によって学び始めます。家庭はすべての兄弟愛を生み出す源泉です。そのため、家庭は平和の基盤であり、平和に通じる最初の道でもあります。家庭の使命は、その愛を世界に広めることだからです。

現代世界の交流と通信の機会の増大により、わたしたちは諸国家間の一致と目的の共有をいっそう強く自覚するようになりました。わたしたちは歴史のダイナミズムと民族・社会・文化の多様性のうちに、互いに受け入れ合い配慮し合う兄弟姉妹からなる共同体を形成する使命が宿っているのを見いだします。しかし、こうした使命は現代においても、「無関心のグローバル化」を特徴とする世界の中でしばしば妨害され、否定されます。「無関心のグローバル化」により、わたしたちは少しずつ他者の苦しみに「慣れ」、自分のうちに閉じこもるからです。

世界の多くの地域では、基本的人権、とくに生存権と信教の自由の権利の深刻な侵害が続いているように思われます。人身売買という悲惨な現象――そこでは人命と絶望が容赦なく取引されます――は、憂慮すべき一例にすぎません。武力による戦争のほかに、それほど目立たないながら、残虐さにおいては劣ることのない戦争が存在します。その戦争は生命と家庭と企業活動を等しく破壊する手段を用いて、経済と金融の分野で行われています。
ベネディクト16世が指摘した通り、グローバル化はわたしたちを隣同士にはしても、兄弟にはしません(回勅『真理に根ざした愛』19)。さらに、さまざまな不平等、貧困、不正の状況は、兄弟愛の深刻な欠如だけでなく、連帯の文化の不在をも示しています。個人主義と利己主義と物質的消費主義の広まりによって特徴づけられる新たな思想は、社会のきずなを弱め、「使い捨て」の風潮を助長します。このような風潮により、弱者、すなわち「不要」と見なされた人々はさげすまれ、見捨てられます。こうして人間の共同生活は、ますます功利的な単なる「ギブ・アンド・テイク」となるのです。

同時に次のことも明らかです。現代の倫理も、真の兄弟愛のきずなを作り出すことができません。究極的な基盤としての共通の父に関連づけられることのない兄弟愛は長続きしないからです(教皇フランシスコ回勅『信仰の光』54)。人々の間の真の兄弟愛は、超越的な父を前提し、また必要とします。このような父を認めることにより、人々の間の兄弟愛は堅固なものとなり、すべての人は互いのことを心にかける「隣人」となるのです。
(つづく)