人は、なぜ生きる?
カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/10/25/ 00:00]
”人はなぜ生きるのか“という問いは、「考える葦」でる人間がいる限り、永遠の課題である。物質文明が高度の発達を遂げて成熟した社会になっても、”人間はなぜ、また何のために生きるのか“をますます深刻に問い続ける。
そうした世間の事情を見ながら、自分の越し方を振り返ると、人生の目的に関する問題は生まれながら解決していたと思う。わたしは11人の兄弟姉妹の中の次男としてキリシタンの家に生まれ、生後三日目にカトリックの洗礼を受け、キリストとその教会に結ばれた。物心がついたころには、家族共同の朝晩の祈り、朝昼晩のお告げの祈り、食事前後の祈りが当たり前に唱えられ、日曜日には家族全員が仕事を休み 一張羅(いっちょうら)を着込んで村の教会のミサに出かけていた。
小学校に上がると、学校帰りに教会に仲間と集まり、男女二組に分かれて「教え方」と呼ばれていた要理教師からキリスト教信仰の手ほどきを受けた。「ケイコ」と呼ばれていたこの勉強はほとんどアダムとエバから始まる聖書の話と、信仰を生きた聖人たちの物語であり、同時に告解(ゆるしの秘跡)と聖体の秘跡を受けるための準備教育が加わった。言うまでもなく毎日曜日のミサ参加があり、真新しい広くて明るいコンクリート造りの聖堂いっぱいの信者集団の中で「共同体としての教会」を子どもながら深く体験した。そして、初告解と呼ばれる「ゆるしの秘跡」と私的初聖体と呼ばれるキリストの「聖体拝領」にあずかったのは小学2年生のときであった。
「公教要理」という小学生向きの優しいカトリック要理問答を手にしたのは小学4年生の時である。いわゆる公式聖体拝領を終えた後、やさしいとはいえ、基本的なキリスト教信仰の体系化された要約である要理書に従って信仰の基本を学び、一人前の信者となるための「堅信の秘跡」に備えるためである。こうしたカトリック要理の学びは「暗記」が中心であったが、祈りのある信者家庭に育ち、聖書の話や聖人物語によって信仰が育てられ、また実際の祈りと典礼参加によって培われた信仰ゆえに、小学生並みに要理書の意味は理解していたと思う。
聖書と聖伝に基づくキリスト教の要約である公教要理を学んだわたしは、小学6年生で自分の信仰を自分の意思で公式に告白して「堅信の秘跡」を受けた。この事実は、人はなぜ生きるのか、人間はどこから来てどこへ行くのかという、人生の究極の意義と目的を自ら理解し、自らの責任において人生を踏み出した「記念すべき時」であった。それ以来、大人になるに従ってさらに信仰の知的理解を深め、信仰体験を積み重ねて、迷うことなくここまで生きてきた。カトリック信者の家に生まれたおかげで、世間並みに人生の悩みを悩むことがなかったということである。
要するに、人生の究極の意義は、父なる神によって創造され、神に向かうように生かされているという一点にあり、この父なる神を完全に啓示し、自ら神に至る人間の道となった神の子キリストに結ばれて生きることこそ、人間の基本的な生き方であるということに他ならない。換言すれば、人生の謎は人間を創造した神を知らなければ分からないということである。人生の意義は人間を造った神のご計画の中にしかないからである。神を知るには、理性の推理を進めて自然界の原因としての神を求めると同時に、神からの啓示を待たなければならない。第2バチカン公会議は言う。「人間の秘義は人となられた神の子キリストの秘義においてでなければ本当に明らかにはならない。事実、キリストは父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(『現代世界憲章』22)。この「人間の高貴な召命」を要約して、現代のカトリック教会は新しいカトリック要理の冒頭で、次のように述べる。
「限りなく完全でご自身において至福なる神は、全き善意の計画によって、ご自分の至福のいのちにあずからせるために、自由意志に基づいて人間を創造された。それ故、あらゆる時とあらゆる場所において、神は人間の近くにおられる。神は人間を招き、人間が神を求め、神を知り、力の限りを尽くして神を愛するよう、人間を助けられる。神は、罪故に四散したすべての人間を、神の家族である教会の一致に呼び集められる。その実現のために、時が満ちたとき、贖い主かつ救い主としてその御子を派遣された。御子において、御子によって、神は人間を、聖霊のうちに、神の養子、したがって、神の至福のいのちの相続人となるよう呼ばれた」(『カトリック教会のカテキズム』n.1)。