道徳教育とは何か
カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/11/25/ 00:00]
小中学校における道徳教育がいよいよ「特別教科」として行われる公算が強くなった。文科省においてばかりでなく、民間でも道徳教育の在り方について議論が盛んだ。しかし、議論は混乱し、的外れも少なくない。道徳教育とは何か、あらためて考えてみたい。
道徳教育には「道」と「徳」とに関する要素があると思う。つまり、「道を教えること」と「道を実践すること」の二つである。
「道」とはいうまでもなく人が人として踏み行うべき「人の道」のことである。「人の道」をどこに探せばよいかと問えば、人の道は人の心にあると答えよう。人の心に刻まれた道は人間の創造者であるお方が人間の本性に刻み込まれたもので、「自然法」と呼ばれる。自然法は人間の知性によって知ることができる。それが「良心」と呼ばれる善を勧め悪を避けよと命じる「神からの心の声」である。
以上で分かる通り、人の道は人間を創造した神が決めたことであって、各々の人間が勝手に善悪の基準を決めるわけにはいかない。ましてや政治が決めることではないのである。神が人間の本性に刻み込んだ人の道は本質的に万人共通の普遍的な原理であり、世界を一つにする倫理的秩序である。善悪の基準は一つでなければならない。近代合理主義の勃興以来、主観主義によって倫理基準が相対化され、社会混乱のもとになった。ここで銭形平次の主題歌の一節、「♪道は時には曲がりもするが、曲げちゃならない人の道」を思い出している。人の道が人間本性に基づく以上、その命令は絶対であって、主観による相対化はゆるされない。
良心の声は理性が目覚める幼児期に理性とともに目覚める。幼児期に子どもは次第に善悪を知るようになる。しかし、それと同時に悪への傾きも現れてくる。嘘をついたり、親のいうことに反抗したりといったことはよくあることである。そこで、道徳教育は家庭において両親の模範と教えによって幼児期に始まる。子どもの善い行いをほめ、悪い行いを諌める、いわゆる厳しい「しつけ教育」である。小中学校における道徳教育は家庭における道徳的しつけ教育の延長線上にあり、発達年齢に応じてより深くより広く倫理的原則を理解させるよう教えなければならない。
次に「徳」についてであるが、徳とは、善い行いの繰り返しによって身に着く「善い習慣」のことである。徳が身に着けば、人間は容易に善を行い、悪を避けることができる。そのため、道徳教育は「徳育」である。まず、親の豊かな愛情のもとで厳しく行われることが要請される。幼児期に子どもを溺愛して甘やかし、厳しい道徳的しつけを怠れば、子どもが大きくなってから親も子供も苦しむことになりかねない。
したがって、小中学校における道徳教育は、親たちを助け、家庭教育と並行して行われることが肝心になろう。また、子どもの道徳教育の責任は家庭と学校だけでないことも注意する必要がある。つまり社会全体が子どもたちの道徳的成長を見守り、援助する必要があると同時に、とくにマス・メディアの使命と責任が強調されなければならない。それに、子どもたちも頻繁に使用するソーシャル・メディアについての指導が大切になろう。ヘイトスピーチに当たるような書き込みが決して少なくないからである。
道徳教育の特別教科化に伴って問題になるのが教科書問題である。上に述べた道徳教育の何たるかを考慮するとき、文部科学省の役人に任せるだけでは心もとない。哲学者や宗教家の協力を広く求めて、人間の尊厳にふさわしく、世界に通用する教科書をつくる必要がある。倫理教科書の採用に関しては、検定教科書だけにこだわらず、親たちの意見も大事にしながら、学校なり教師なりが信念に基づいて自由に教科書を選び使用することが望ましい。
教科書に関するわたしの見解を述べるとすれば、自然法を補正し完成するものとしてのキリスト教の道徳的教えを推奨したい。それは、具体的には「神の十戒」と、「すべてに越えて神を愛し、隣人を自分のように愛する」という、十戒を集約し完成する愛の掟の啓示である。公立校などにおいてキリスト教の道徳原理を教えるのが不可能な場合には、せめて国際人権宣言を教科書代わりに使用するのも一案であろう。権利と義務は表裏一体をなすものであり、人権宣言はこれを守るための倫理的義務宣言でもあるかからである。
なお、戦後レジームから脱却し、戦前の日本を取り戻そうとするかに見える安倍政権が検定する道徳教科書については厳しくこれを吟味する必要がある。もし満一、戦前のような、国家神道や皇国史観に基づく偏狭な国家主義的・軍国主義的な道徳や愛国主義を押しつけるものであれば、断固これを拒絶すべきは当然である。