“他人の役に立とうとする”人が増加

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“他人の役に立とうとする”人が増加

カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/12/10/ 00:00]

文部科学省所管の統計数理研究所は、去る10月30日、日本人の意識を探るため5年おきに実施している「2013年日本人の国民性調査」の結果を公表した。わたしが購読している三紙のうち、毎日新聞が10月30日、南日本新聞が11月1日に報じた。

この記事を見て感じたことを若干述べたい。まず、昨2013年10月から12月に行われた調査の結果報告がなぜ今なのかと思った。あまりにも遅いのではないかということである。そのうえ、毎日新聞は27ページ、南日本新聞が29ページの「社会面」で取り扱っていることが気になる。なぜ一面トップで大々的に報じないのかということである。人々の社会的かつ道徳的問題はもっと優先して大事にされなければならないのではないだろうか。

ところで、調査結果のうち、わたしが注目したのは次の記事である。毎日新聞は書いている。「自分も含めた周囲の人について『他人の役に立とうとしている』と感じる人は45%。前回(08年調査)より9ポイント増えた。逆に『自分のことだけに気を配っている』と感じている人は42%で、前回より9ポイント減。78年にこの質問項目を設けて以降、初めて『他人の役に立とうとしている』と感じる人の割合が上回った」。そして、その理由として、統計数理研究所の、「東日本大震災などでボランティアが活躍する姿を見てそう感じる人が増えていのだろう」という所見を載せている。 南日本新聞も同じ調査結果を報じている。

では、この調査報告をどうみたらよいのだろうか。わたしたちキリスト者にとって「他人のために役に立とうという心」は「隣人愛」であり、「自分のことだけに気を配る」ことは「利己主義」と呼ぶ。現代日本人の国民性が「利己主義」に対して「隣人愛」が上回ったことは嬉しいことに違いないが、しかし、上回った、と言ってもその差はただの3%、ほとんど拮抗しているのである。だから、以上の結果を喜ぶ前に、隣人愛を大切にする日本人が半数にも達していないことを嘆くべきではないのか。そのうえで、人間本来の隣人愛を取り戻すために何をすべきかを問わなければならないのではないか。

天地創造の神は、人類の発展のために結婚の制度を定め、夫婦ないし両親の協力を得て子どもを産み育てることを望まれた、と聖書は教えている。それは、動物に比較して、人間の子どもが成人するまでに長い年月がかかり、その間、両親の模範としつけによって愛に生きる人間人格の基礎が育成されることを意味しているのではないか。子どもの自由や

権利を尊重するとの口実のもと、子どもの教育やしつけを怠る風潮が蔓延しているかなしい現実を思わざるを得ないのである。

調査結果報告の中で、もう一つ気になることがある。毎日新聞は書いている。「努力しても報われない、と考える人は26%で、88年より9ポイント増。特に20,30代の男性はいずれも88年調査より1・5倍増の約4割を占めた」。多くの日本人が、特に若い人々が生き甲斐を感じることなく、空しい日々を送っているというこの現実をどう判断すればよいのか。強欲な金融資本主義が渦巻く現代社会において、1%を除く99%が経済的格差を嘆く失望感なのか、それともおカネに頼る人生の空しさを感じているのか。わたしはそうは思わない。むしろわたしは、多くの日本人が利己主義に閉じこもっていることの空しさを感じているのではないかと思う。隣人を愛するとき、人は自らの存在意義を感じるはずだからである。第2バチカン公会議は言明している、「人間は自らを純粋に与えて初めて、完全に自分自身を見いだすことができる」(現代世界憲章24)。人のために尽くして初めて自分になれるのである。しかも、人を愛するための苦労はむしろ喜びとなる。これは子ども愛する親たちの実感であり、孝行息子においても然りであろう。もしも日本人が真に隣人愛に生きているのであれば、自己を確立して生きがいと喜びに満たされているに違いないのだ。

聖書は、人間が神の似姿に造られたと教えている(創世記1,28参照)。教会はこれを解釈して、人間は三位の尊い交わりを生きる三位一体の神の似姿に造られたのであり、それはすなわち、人間は神の愛によって愛のために造られたということに他ならない。人間にとって、「愛は、生まれながらの根本召命である」(聖ヨハネ・パウロ2世教皇)。「人間のいのちは召命である」(福者パウロ6世教皇)とすれば、人間は神の愛に答えて「すべてを超えて神を愛し、隣人を自分のように愛する」(マルコ12,28-34参照)ことに人間の本性に叶う生き甲斐がある。また、これに勝る人生の喜びはない。

「世のため人のため」という古くからの日本人の理想は、まさにキリスト教において、神の恵みの助けによって実現できることを、若者をはじめ、すべての日本人に知ってほしい。