家庭のモデル――聖家族

家庭のモデル――聖家族

カテゴリー カトリック時評 公開 [2014/12/25/ 00:00]

今年もクリスマスがやってきた。人となった神の子イエス・キリストの誕生祭である。聖ヨハネ・パウロ2世教皇は「キリストは家庭を通ってこの世に来られた」(家庭への手紙)と言われたが、この家庭とは結婚のきずなで結ばれたマリアとヨセフの家庭である。だからクリスマスは家庭の祝祭でもあり、家庭について考える絶好の機会でもある。

キリストの誕生は神秘に満ちている。母マリアはダビデ家のヨセフのいいなずけであった。これは、当時のヘブライ人の世界では法律上の結婚であり、事実上マリアとヨセフは正式に夫婦であったわけだが、マリアはヨセフと同居する前に聖霊によって子を宿していた。妻マリアが身ごもっていることを知った夫ヨセフは、「正しい人で、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」(マタイ1.19)が、天使が夢に現れてヨセフに言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1,20-21)。夢から覚めると、ヨセフは、「主の使いが命じたとおり、彼女を妻として迎え入れた」(マタイ1,24)。こうして、神の介入により、生まれてくるイエスのために、結婚して愛し合うマリアとヨセフの温かい家庭が造られた。

マタイ及びルカ福音書が証言する通り、マリアは神に対する信仰と従順によって神の子イエスを産み育て、生涯その使命のために献身した。ヨセフもまた、地上におけるイエスの父としてイエスとその母マリアを守り、社会的にイエスの権利と名誉を保証し、困難のときにも平常時においても、忠実に働きながら家族に奉仕した。イエスもまた、マリアとヨセフに守られて、「イエスは、二人に仕え、…知恵を増し、背丈も伸び、益々神と人とに愛された」(ルカ3,51-52)。教会はイエス・マリア・ヨセフの幸せな家族を「聖家族」と呼び、「すべてのキリスト者の家庭の原型かつ模範」(ヨハネ・パウロ2世)として仰いできた。

しかし、聖家族はキリスト者家庭の原点・模範であるに留まらず、すべての人間家庭のモデルであると言わなければならない。なぜなら、だれであれ、人間は肉体においては物質世界の子であると同時に、肉体を生かす霊魂は父なる神の直接の創造に成るものであるから、すべての人間の子は神の英知と愛によって生まれるのであり、聖書の啓示によれば、すべての人間が「神の養子」となるために召された存在である。したがって、夫婦は神の前に結ばれ、神の力によって子どもを産み、神からいただいた権威(親権)をもって子どもを育てるのである。それ故に、教会は「人間の誕生」を「神秘」と呼び、子どもが生まれ育つ家庭を「いのちの聖域(Sanctuary)」(ヨハネ・パウロ2世)と呼んできた。

人間の誕生が両親の人間としての力を超えた神秘としてこれを受け止めるのは、キリスト者ばかりではない。多くの日本人が「子どもは授かりもの、預かりもの」と実感し、「子宝」と呼んでその誕生を祝い、子どもを立派に育てて神にお返しするというのは、すべての親たちに共通の実感ではなかったか。子どもたちもまた、両親の背後に神秘的な実在を感じ取って親を敬い、これに孝養を尽くすことを美徳として大切にしたのではなかったか。しかし現実を見れば、DV(家庭内暴力)が蔓延し、子どもの虐待や殺人、方や親殺しまでが横行する。その背景には、子どもを子宝としてではなく、親たちの自由を制限し、その暮らしを脅かす侵入者としてこれを敬遠し、欲しいと思えばあらゆる手段を講じ、第三者を利用して子どもを作ろうとする。他方、子どもたちも年老いた両親の介護を敬遠し、親殺しのニュースも絶えることがない。教会はこの現象を「生命の聖域」を脅かす「死の文化」(ヨハネ・パウロ2世)と呼んで非難してきた。

その原因をどこに求めたらよいのか。おそらくそれは、この世から、何よりも家庭から神を追い出して自分を絶対化する世俗主義に求めなければならないのではないか。世俗主義に裏付けられた個人主義が家庭を破壊し、子育てを忌み嫌う風潮を招来したのではないだろうか。この忌まわしい風潮を打破して真の家庭文化を築くためには、万人が神の感覚を取り戻し、人間生活と人類発展の鍵である家庭を聖なるものとして再構築しなければならない。おもてなしの得意の日本人にはそれが可能である。誰よりの何よりも、生まれてくる新しいいのちを「神からの授かりもの」として尊敬と愛情をこめてもてなし、もし子宝に恵まれないなら、他人の恵まれない子を養子又は里子としてもてなすことができるはずだからである