憲法改正論者の真の目的は何か
カテゴリー カトリック時評 公開 [2015/01/10/ 00:00]
戦後70年を記念する年が明けた。この70年は新生日本にとって何だったのか。著名な総合雑誌などを読んでみると、実にさまざまな評論や議論が飛び交っている。わたしはカトリック聖職者として、信仰・道徳の観点から、敗戦によって生まれ変わった日本を考えてみたい。
1945年(昭和20年)8月15日、戦争終結を告げるあの玉音放送を聞いたとき、多くの日本人が、「ついに神風は吹かなかった」、「大和魂は敗れた」と慨嘆して意気阻喪し、茫然自失したことを覚えている。そして、GHQによって示された、明治憲法に代わる新しい憲法試案を注意深く吟味し、帝国議会でこれを承認して、この新しい“日本国憲法”が1946(昭和21)年11月3日、公布された。昭和天皇の発布の言葉は次のとおりである。
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしむる。御名御璽 昭和二十一年十一月三日」。
新憲法は、人類普遍の原理として“主権在民”を宣言し、“恒久の平和”と“基本的人権の保障”をうたっている。そして、この平和主義と人道主義を生かす魂として「普遍的な政治道徳の法則」に従うことを誓っている。
さらに憲法は、第97条において、基本的人権について、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことをできない永久の権利として信託されたものである」と述べ、基本的人権が万人共通の不可侵の権利であることを強調している。
新憲法が前文で「人類普遍の原理」とか、「政治道徳の法則は普遍的なものである」というとき、それは、国のあり方を決める最終的な基準として、「日本の正義」から「世界の正義」に転換したことを意味している。いわゆる東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁いたというばかりでなく、まさに人類普遍の世界の正義によって日本の戦争責任を裁いたというべきである。また、サンフランシスコ講和条約をもって日本が国際社会に復帰し、国連に加盟したのも、人類普遍の精神的秩序、すなわち世界の正義に基づく国家としてであったことは言うに及ばない。さらにまた、従軍慰安婦に関する「河野談話」や侵略戦争を認めて謝罪した「村山談話」も、人類普遍の正義に基づくものであった。
しかし、戦後70周年を迎えた今、日本国の生まれ変わりを認めず、「戦後レジームを転換し、日本を取り戻す」という政権が誕生して、日本の将来に赤信号が点滅し始めたのではないかとの心配が出てきた。15年にわたるあの昭和戦争を正当化し、東京裁判を認めず、皇国史観を堅持する靖国神社参拝を強行し、さらに、河野談話や村山談話を見直しを主張するこの政権は、憲法改正を発議するに必要な衆議院の3分の2以上の議席を獲得した今、大手を振って憲法改正に邁進することは必定であろう。多くの国民が憲法改正と言えば、それは憲法9条を改正して戦争のできる国づくりを意味しているようだが、わたしは、自民党が目指す憲法改正は、国家のあり方を決める最終原理を「世界の正義」から「日本の正義」に転換しようとしていると感じている。その証拠に、自民党の憲法改正草案から「人類普遍の原理」や「普遍的な政治道徳の法則」と言った文言が一切削除され、また、憲法が国民に保障する「基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり」、「侵すことのできない永久の権利として国民に信託されたものである」とする憲法97条が全面削除されている。
憲法97条の削除に関して、『世界』誌の‘14年7月号に面白い記事が載っていた。2011年12月に立ちあげられた自民党の「新憲法草案」(その後、憲法改正草案に変えられた)の起草委員会での話だが、現憲法97条を削除するに際して、片山さつき議員が「天賦人権説をとるのはやめよう」発言されたとされる。起草委員会の事務局長を務めた磯崎陽輔参議院議員はこのいきさつを説明して述べている。「天賦人権説というと、そこにはキリスト教の神様が出てきて、日本の神様と違う」と。要するに、基本的人権問う思想はキリスト教に由来するから駄目だということに他ならない。つまり、基本的人権の解釈は日本の都合によって自由に決めようというのだろうか。
要するに、自民党の憲法改正方針は、単なる戦争放棄の問題であるばかりでなく、人類普遍の倫理的原理を放棄して日本固有の正義に返ろうということではないだろうか。そうだとすれば、周辺各国との「歴史認識」の一致はあり得ず、国際的孤立の道に踏み込むことになる。憲法改正の理念については、慎重な吟味が必要である。